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第六章 教育・文化・民俗(教育)(4)


第六章 教育・文化・民俗(教育)(4)
(2021年12月1日更新)

第四節 社会教育

 

一、社会教育の歩み

 社会教育が発足したのは明治十九年頃とされ、郡や町村に教育会が設置されています。会員は、学校職員や町村の各公職者を始め有職者で組織され、小学校教育の振興や町村民の社会教育が主な目的でありました。

 明治三十七、八年の日露戦争後の社会情勢は、実業教育・社会教育の振興を促し、集落や町村に婦人会や青年会が設置され、教養の向上や社会奉仕などの団体活動が活発になりました。殊に第一次世界大戦後は、社会教育活動が新しい教育活動として認められ、人間形成の場は学校だけでなく、家庭や社会生活の諸分野の中にも求められてきました。

 このような活動を当時は「通俗教育」と呼ばれていましたが、大正十年改めて「社会教育」と称されるようになり、文部省でも社会教育課が設置されました。

 しかし、昭和六年の満州事変後は、社会教育の目的が帝国主義一色に塗り替えられ、特に支那事変勃発後は軍事訓練の場と化し、本来の社会教育の目的から逸脱してしまいました。

 第二次世界大戦後は、昭和二十一年文部省の次官通達をもとに、同二十三年には県下全市町村に公民館が設置され、これまで学校教育の従属的な存在であった社会教育は、学校教育と並ぶ重要な地位を占め、教育環境の整備と民主化運動の第一線に立てられました。とはいっても、敗戦という空前の社会変動による大混乱の最中では、成人の学習活動の場をも失わせる状況にありましたが、公民館設置後は、ここを拠点としてようやく成人教育が行われるようになりました。

 昭和四十年代に入って、社会・経済・文化の変化により社会教育の様相も変わってきました。そこで、昭和四十六年には「急激な社会構造の変化に対処できる生涯教育の在り方について」の答申によって生涯教育の重要性が説かれ、更に文部省は昭和六十三年に社会教育局を生涯教育局と改め、一層その必要性を強調しています。

 

二、青年教育

(1)農業補修学校

 小学校を終えた者に、小学校教育の補習と職業上の知識修得の目的で、明治の初めより青年夜学校が設けられ、小学校教員などがその指導者になっています。明治三十五年の文部省令によって実業(農業)補修学校の設立が進み、波多津村では大正四年十月に青年会が創立され、大正五年八月には各字に青年夜学会が開設されています。西松浦郡誌(大正五年調)によりますと、郡内青年会員数は、南波多村五七八名(一位)、波多津村は二四八名で第二位となっています。また、同誌(大正九年調)によりますと、波多津村団長小杉定治(波多津小学校長)、波多津東部団長川原田仁八(板木小字校長)との記事が残されています。

 続いて大正六年七月に処女会の創立をみています。

 大正九年には波多津実業補修学校を波多津小学校に附設し、大正十年には青年学校制度改正により、波多津公民学校と改称されるという経過を辿っています。

 

(2)青年訓練所(公民学校)

 青年教育の普及発達は大正に入り急速に進み、大正三年の第一次世界大戦後は、国際的な緊迫と青年の心身の鍛錬と資質の向上を目指して、大正十五年に青年訓練所が設立されました。

 

(3)青年学校

 これまでの青年教育は、実業(農業)補修学校と青年訓練所とが両立し、二重学籍を持つ者が多かったので、これを一本化し教育を一段と強化するため、昭和十年青年学校令が交付され実業青年学校が誕生、昭和十四年には「青少年二賜ハリタル勅語」が交付され、教育内容も国家主義的な色彩を強めるとともに、この青年学校を義務制とし、増産と非常即応の期待をかけています。そのため、昭和十四年九月十四日「青年学校学則変更に付き申請」が当時の実業青年学校長田中繁太郎より県知事へ提出されています。

 これまでの歴代の校長は小学校長が兼務となっています。

田中繁太郎 昭和八年四月

相川 伊三 昭和十九年四月 就任されています。

 昭和十九年四月実業青年学校が波多津小学校より分離独立したので、専任校長として

松尾 竹一 昭和十九年四月

田中時次郎 昭和二十二年四月 就任されています。

 なお、田中時次郎は昭和二十三年四月から発足した新制中学校長を一年間兼務し、二十三年四月より二十五年三月まで波多津中学校長として勤務されています。

 昭和二十三年三月三十一日付をもって波多津村立波多津青年学校は廃校となり、翌四月一日より新制の波多津村立波多津中学校が発足しました。

 

三、育友会(PTA)

 波多津小学校沿革史によりますと、大正六年七月に父兄会発足とありますが、その後の記録は見あたりません。

 昭和二十二年の学制改革により、従来の後援団体的な父兄会に代り、学校教育は教師の力ばかりでなく、社会全体の理解と協力が望ましいということから「父母と教師の会」すなわちPTAが昭和二十三年一月に結成されました。また、波多津中学校の記録によりますと、昭和二十二年七月十九日波多津中学校教職員後援会を設立する。会長一名(松尾茂資)委員各集落一名となっていますが、翌二十三年一月二十九日教育後援会を波多津中学校育友会と改称しています。

 活動内容としては、(1)会員相互の研修 (2)学校行事への協力及び財政的援助 (3)学校環境の整備等が主なものですが、その活動のお陰で教材教具や施設設備の充実に多大の実績が残されています。

昭和五十年頃からは、教師との連携を密にして、学級懇談や校外生活補導等も活発に進められ、健全な児童生徒の育成に成果をあげています。

 

四、子どもクラブ

(1)あゆみ

 戦前は各集落毎に少年団という組織があり、小学校上級生が責任者になっていました。その活動は、日曜日毎に早起会を行い、氏神様や集落集会所などの清掃、夏休みなどの長期休業中は、自主的に学習会や水泳等を実施していました。また、正月七日の鬼火焚きや十四日のもぐら打ちの行事等にも積極的に参加し、楽しい思い出をつくっていました。また、団の運営費は薪やわらび取りをして、その売り上げ金で賄うなど自主的な活動をしていました。

 波多津地区の子どもクラブは、昭和二十六年波多津村婦人会で母親学級を開設し「こどものしつけ教育」に取り組んだことから十四の子どもクラブが他地区に先駆けて育成され、主として子どもの親がその世話に当たり、海水浴やキャンプあるいはスポ—ツなど思い思いに活動していました。その後町子どもクラブ育成会のお骨折りで町子どもクラブが発足しています。現在では事業も公民館を拠点として開催されるようになり、集落や町独自の事業のほかに、市子どもクラブ連合会の主催事業にも積極的に參加しています。

 

(2)町子どもクラブ会長名

第一代 松本  進 昭和四十九年度   第二代 栗原 定和 昭和五十五年度

第三代 原口 久幸 昭和五十六年度   第四代 田中 熊夫 昭和五十九年度

第五代 川元 國満 平成元年度     第六代 井手 睦美 平成四年度

第七代 高田 保文 平成六年度     第八代 柴田  茂 平成七年度

第九代 井手 正人 平成九年度     第十代 田中 英雄 平成十年度

 

五、青年団

(1)あゆみ

 青年団の沿革は随分古いようです。明治の初めから若者宿(わっかもん宿)と呼ばれるものがあり、親睦・訓練・職業修得の場として、また、集落の防災防犯の任にもあたった模様です。そこで鍛えられて初めて一人前の人間として扱われることになっていました。

 大正八年郡連合青年会が組織され、大正十三年十月に大日本連合青年団の結成、同十四年四月発団式が行われ、この青年団を軍事訓練の実施期間と法定されるという経過を辿っています。

 戦後は荒廃した村の復興に、特に青年団の力が不可欠とされるところから、青年団の復活に全力が注がれ、昭和二十二年に民主的な新しい波多津村青年団が発足しました。

 

(2)歴代団長名

   初代 塚部 勝巳 昭和二十二年    二代 古川 美年

   三代 福地 道雄           四代 栗原 定和 昭和三十年

   五代 高森  智 昭和三十二年    六代 杉本 茂助 昭和三十三年

   七代 高森  保 昭和三十四年    八代 松本 偵助(旧姓井手)昭和三十五年

   九代 前川 芳郎 昭和三十六年    十代 長谷川益男 昭和三十七年

  十一代 小杉 信行 昭和三十八年   十二代 藤森 邦夫 昭和三十九年

  十三代 谷崎 寿昭 昭和四十年    十四代 小杉 昭俊 昭和四十一年

  十五代 金子 勝利 昭和四十二年   十六代 古川 正弘 昭和四十三年

  十七代 古川 俊雄 昭和四十四年   十八代 古川 重利 昭和四十五年

  十九代 藤森 波男 昭和四十六年   二十代 川元 和美 昭和四十七年

 二十一代 酒谷 作義 昭和四十八年  二十二代 藤森 秀喜 昭和四十九年

 二十三代 水尾 敏夫 昭和五十年   二十四代 吉田 正男 昭和五十一年

 二十五代 井手  豊 昭和五十二年  二十六代 井本 睦美 昭和五十三年

 二十七代 田中 勝幸 昭和五十四年  二十八代 藤森 堪山 昭和五十五年

 二十九代 平松 義彦 昭和五十六年  三十 代 市丸 道雄 昭和五十七年

 三十一代 市丸 国助 昭和五十八年  三十二代 市丸 正一 昭和五十九年

 三十三代 塚本 光次 昭和六十年   三十四代 古賀 洋幸 昭和六十二年

 三十五代 高森  晋 昭和六十三年 

 

 その後町としての青年団は、会員減その他の事情で組織されていませんが、浦地区では継続活動をしています。活動内容は次のとおりです。

●無縁墓地の清掃

●盆の十四・十五日 初盆詣りと踊り

●盆の十七日 浦全体の盆踊り

●十月十七日 秋祭 山車(やま)引き

 このようにして青年団の活動を絶やすまいということで頑張っています。そして、やがて再び町青年団の復活に期待をかけているところです。

 浦集落青年団長

 平成元年 塚本英一

 平成二年 田中勝成

 平成三年 吉田辰幸

 

(3)青年宿

 明治時代から各集落には青年宿があり、十五歳から嫁を娶るまでは必ずそこで寝泊まりしていました。昼間は家業に従事し、夜になると宿に集まって先輩の話しに耳を傾けたり、たわいない話しに打ち興じたりしてその日の疲れを癒していました。

普通のこの青年宿は、青年に理解のある家長の住む離れなどを借りていましたが、大正十五年頃には各集落に青年倶楽部が建設されています。

 浦の青年倶楽部の場合は、畑津から浦へ役場が移転新築した折の廃材を利用して、大正十五年に建築されています。しかし、昭和二十年頃には老朽化も進み使用に堪えなくなりましたので、村当局と再三にわたる交渉の結果、ようやく昭和二十四年建設され、名称も青年倶楽部から新しく公民館となりました。しかし、資金面では不足を来したので、落成式を兼ね、浪曲界の花形浪曲師を呼び興行、その利益で返済しています。

 

 

六、婦人会

(1)あゆみ

 明治三十四年唐津の奥村五百子により婦人会が組織され、明治から大正期にかけて女性解放運動、生活改善等の運動に取り組んだのが始まりとされています。戦前は愛国婦人会、国防婦人会として銃後の守りにつとめていました。

●昭和二十年終戦と同時に大日本婦人会解散

●昭和二十二年十月佐賀県婦人会創立により波多津村婦人会発足

●昭和二十六年婦人会館設立により一日一円貯金開始

●昭和二十九年町村合併により市制発足と同時に伊万里市婦人会連合会結成

●同年婦人会問題研究会が県単位で組織され、代表出席の要請

●昭和三十一年新生活運動開始

●昭和三十四年ねたきり老人へ「愛のおしめ」寄贈運動開始

●同年北方領土返還署名運動開始

●昭和三十五年婦人学級、消費者運動開始

●昭和四十四年栄養改善協議会が結成され、料理教室開催

●昭和四十六年佐賀県交通安全母の会発足に伴い、波多津町交通安全母の会を発足させ、学童や老人の交通安全、飲酒運転 追放に努める。平成二年度表彰を受ける。

●昭和五十六年婦人防火クラブ結成。三月内野クラブ、八月中山クラブ、九月木場クラブ

●昭和六十年アフリカの子どもを救う募金活動

●昭和六十二年婦人防火クラブ煤屋クラブ結成

●平成四年花いっぱい運動展開、各集落に花壇設置、毎年継続事業とする。

●平成七年佐賀県より木場へミニポンプ支給される。

●平成九年佐賀県より筒井へミニポンプ支給される。

 現在、毎月町内一斉美化作業を支部の隅々まで実地しているが、今後更に健康づくり推進とボランティア活動を通して地域の福祉につとめていきたいと思います。

 

(2)歴代会長名

 初代 金子 フヤ 昭和五年         八代 鶴田 タイ 昭和四十五年

 二代 加川 タヨ 昭和十二年        九代 井手 キヌ 昭和四十九年

 三代 田中 ウタ 昭和十四年        十代 塚本 スミ 昭和五十三年

 四代 小杉 ツサ 昭和二十年       十一代 川添サトノ 昭和五十七年

 五代 川内 サエ 昭和三十二年      十二代 小杉マツエ 昭和六十年

 六代 兼武 文子 昭和三十六年      十三代 前田トシ子 昭和六十三年

 七代 小杉マツエ 昭和三十七年      十四代 長谷川コトノ平成四年~現在

 

七、老人クラブ

(1)あゆみ

●昭和三十九年 波多津町老人クラブ発足

●昭和四十二年 山町交歓会(福島・波多津・黒川)

●昭和四十三年 四県連合交歓会(薩・長・土・肥)

   同    明治百年記念植樹

●昭和四十四年 老人クラブ旗制定

●昭和四十七年 県福祉大会で知事表彰

●昭和四十八年 老人クラブ十周年記念式典

●昭和五十三年 金婚・米寿菊花展

●昭和五十六年 老人クラブ旗新調

   同    筒井ゲートボール、九州大会で活躍

   同    老人クラブに同好クラブ(ふるさと・菊花・あみもの)誕生

●昭和五十七年 波多津老人憩の家高尾山荘落成開所

所長 第一代 多久島竜美 昭和五十七年

   第二代 川原 郁郎 昭和五十九年

   第三代 加川 周史 昭和六十一年

   第四代 池田 光宏 平成四年

   第五代 岩政 国光 平成七年

   第六代  角 靖二 平成八年

   第七代 久保田 隼 平成九年

   第八代  東島 悟 平成十年~現代

●昭和五十九年 老人クラブニ十周年記念式典

●昭和六十年 県知事表彰

●その他 毎年研修視察・奉仕作業・スポーツ行事を実施し、会員の教養向上と親睦並びに健康増進につとめるとともに、三年毎に物故者慰霊祭を実施しています。

 

(2)歴代会長名

 初代 小杉 定治  昭和三十九年

 二代 田中忠兵衛  昭和五十一年

 三代 野田庄太郎  昭和五十七年

 四代 井手  悟  平成八年~現在

 

八、体育協会

  1. あゆみ

●昭和二十三年四月一日 西松浦体育協会結成

●昭和二十九年 伊万里市体育協会結成

●昭和三十四年三月二十日 波多津町体育協会発足並びに規約制定

●昭和三十五・六年 波多津地区は県教育委員会より社会体育の研究指定を受け、二ヵ年にわたりバレーボールの普及に努める。

 

(2)事業内容及び活動

●町民体育の指導奨励並びに各種体育行事の開催

●住民の体位向上に関する調査研究

●各種関係機関団体との連携及び競技參加の協力

●町民体育指導者の養成

活動として

●陸上部・野球部・ソフトボール部・バスケットボール部・剣道部・相撲部・卓球部・バトミントン部・ゲートボール部・スポーツ青年団部の各部を設置して活動しています。

 

(3)歴代会長名

初代 吉田 町造  昭和三十四年

二代 松尾  團  昭和四十六年

三代 小杉 東太  昭和四十八年

四代 栗原 定和  昭和五十六年

五代 田中 勝利  平成三年~現在

 

 

 

九、波多津公民館

(1)あゆみ

 波多津公民館は昭和二十三年八月十日開館、同時に十四の集落公民館が分館的存在で発足しています。(伊万里市史)その後の活動は、

●毎月の公民館月報発行、ナトコによる映画会や巡回文庫開始・村民体育大会や成人学級の開催

●昭和二十六年から文部省委嘱により青年学級を中学専修化的に開設

●婦人会支部例会開催による母親クラブの開設・子どもクラブの育成に努める。

●昭和三十二年 文部省指定によるPTA活動の推進や婦人学級の推進

●昭和二十九年 町村合併により伊万里市波多津公民館となる。

●昭和三十五・六年の二ヵ年間 県教育委員会指定「社会体育」の振興に当り、全町バレーボールに取りくみ楽しい町づく りを展開

●昭和四十八年四月に建物の老朽化に伴い場所を変更し現在地に新築開館

 

(2)歴代館長名

初代 黒川 安次 昭和二十四年   十一代 池田  豊 昭和五十四年

二代 山本 登一 昭和二十六年   十二代 池田 光宏 昭和五十五年

三代 松尾 加助 昭和二十九年   十三代 栗原 幸雄 昭和五十六年

四代 渡邊 勝治 昭和三十年    十四代 松尾 義明 昭和五十七年

五代 山本 登一 昭和三十三年   十五代 幸島 重光 昭和五十九年

六代 須藤 心一 昭和三十八年   十六代 山口 源太 昭和六十三年

七代 田中 和助 昭和四十一年   十七代 金子 照夫 平成二年

八代 古川  功 昭和四十五年   十八代 高峯 敬冶 平成九年

九代 市丸 光彦 昭和四十九年   十九代 馬場崎満朗 平成十年

十代 加川 周史 昭和五十三年   二十代 金子 照夫 平成十三年四~

                             平成十七年三月三十一日

                  二十一代 小杉 道雄 平成十七年四月一日~

(3)職員体制

 館長(兼)一名・主事一名・事務職員一名(兼)・臨時職員一名 計四名

 

(4)公民館の事業(平成十年度)

 1.公民館運営審議会(二一二千円)

  ●各種事業の企画・実施の審議

 2.自治公民館事業

  ●自治公民館相互の連絡調整

  ●自主活動の推進

 3.家庭教育学級(国庫 三ニニ千円)

  ●北部地域家庭教育学級の推進

 4.伊万里塾推進事業(一九〇千円)

  ●波多津塾の推進

 5.生涯学習モデル市町村事業(三〇千円)

  ●公民館大会の開催

 6.青少年育成「すこやかさがっ子」(一〇〇千円)

  ●地域内の異性代交流

  ●自然体験活動

 7.青少年育成活動事業

  ●年間を通して健全育成運動の啓発活動と推進

  ●夜間巡回パトロール

 8.社会同和教育推進事業

  ●社会同和教育推進協議会及び研修会

  ●PTA同和教育研修講座

  ●各種研修会・大会への推進員の派遣

 9.新生活運動推進協議会

  ●町生活改善規約の普及・実践

  このほか、図書の貸出しと月一回の広報「はたつ館報」は継続事業としています。

  これらの事業を効果的に実践するためには、自治公民館との連携を密にする必要があるので、月一回の自治公民館長会 及び年二回の主事会を開き、連絡調整を図ると同時に研修の機会をもち、人間性豊かで活気ある町づくりを目指しています。

 

 

 

 

 

 

第五節 波多津の教育を支えた人たち

 

(波多津出身の教育者で、平成十年現在故人及び遠隔地在住者だけ)

 明治五年八月、太政管布告によって学制が定められました。「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」という主旨のもとに、各市町村で小学校が設立されました。わが波多津では、明治八年九月に三岳小学校が畑津に、同じく太平小学校が井野尾に設立されました。その頃の教育者の氏名は明確な資料がありません。明治二十一年に中山の坂本吉兵衛氏が、波多津出身の教育者としては資料に記載されている最初の人です。その後優秀な人材が教育者の道を志望され、佐賀県内の教育界で活躍し多大の功績を残しました。波多津は先生のむらといわれる所以であります。出身集落別に先輩の氏名と略歴を挙げてみます。

 

【筒 井】

●古川政次郎(明治二十二年生)明治四十三年三月佐師卒、同年四月波多津高小訓導、大正三年四月東松浦郡芳谷小、和田山小、入野小訓導昭和三年四月田野小校長、打上小校長、佐賀郡中川副小校長を最後に昭和十六年三月退職、その間教育功労顕者として県知事表彰、文部大臣表彰を受賞されました。昭和九年には文部省募集「小学校修身教科書資料文」一等当選、更に「農村の教師」や「村の学校」を出版、また民話「唐津勘兵衛」を収集して出版されました。従七位勲七等瑞宝章を受けられました。退職後は佐賀県庁地方課嘱託や「みどり園長」をつとめられました。

●松尾茂資(明治二十五年生)明治四十二年三月佐賀農卒、同年五月波多津高小准訓導、 波多津尋常小訓導、波多津高小、筒井分教場、波多津農業補修学校で教鞭をとられました。教職二十四年のすべてを波多津の教育に専念し、昭和八年八月退職されました。昭和二十七年に波多津村学務委員となり、同二十九年町村合併により市教育委員を一年間つとめられました。

 

【井野尾】

●古河 亘(明治十七年生)太平尋常小から唐津中、広島高師に進学、明治三十八年三月広島高師卒、卒業後は広島県内の 旧制中学校の教諭及び校長として活躍されました。

 

【田 代】

●谷崎五太郎(明治十七年生)明治三十八年三月佐師卒、明治二十八年三月より三十四年三月まで大平尋常小准訓導をつとめた後佐師入学、卒業と同時に伊万里小訓導、大坪小を経て大正四年四月南波多尋常小校長に昇任されました。黒川小、松浦小、大坪小の校長を歴任し昭和八年三月退職されました。その間教育功労顕者として知事表彰を受賞、叙従七位勲八等瑞宝章を受けられました。

●谷崎権之助(明治二十八年生)大正七年三月佐師卒、明治四十四年四月より大正三年三月まで波多津高小准訓導をつとめた後佐師入学、卒業と同時に波多津尋常小訓導、大山小、有田小訓導を経て昭和二年四月から三年間佐賀県師範学校訓導を勤められました。昭和五年四月有田小訓導、昭和十年四月山代西第一高小校長に昇任されました。昭和十三年五月佐賀県視学となり、昭和二十一年三月終戦により退職されました。

●谷崎文雄

 

【板 木】

●加川松五郎(明治三十年生)大正五年三月唐津中卒。同年相知高小代用教員をされました。大正六年十二月より昭和三年十一月まで十一年間軍隊勤務、陸軍特務曹長で除隊、昭和五年四月から十年十月まで波多津高小の訓導をされました。その後唐津高等実業青年学校の軍亊教官となり、昭和二十年八月終戦により退職されました。軍隊現役時に叙勲七等瑞宝章を受けられています。

 

【中 山】

●中山豊治郎(元治元年生)明治十三年三月鬼塚村千々賀上等小卒。明治十八年四月三岳小訓導、明治二十六年四月太平尋常小訓導、明治三十三年十一月同校校長になられました。大正三年三月退職されましたが、教職三十年間波多津の教育に尽力されました。先生の薫陶を受けた人たちによって、大正四年一月「中山先生頌徳碑」が中山入口に建立されています。

●坂本吉兵衛(明治十年生)明治二十四年三月大岳村立尋常小補習科(四年)修業、明治三十六年二月黒川第一尋常小准訓導、大坪小を経て明治四十一年四月波多津尋常小に転任され、明治四十四年三月退職されました。

●田中東吉(明治十七年生)明治三十七年三月佐師卒。同年四月より伊万里小訓導となり

六年九か月後の明治四十三年十二月大川内小学校に昇任されました。その後東山代小、二里小、牧島第一小、外尾小、伊万里小の校長を歴任し、昭和七年四月伊万里公民学校長、昭和十年四月伊万里高等実業青年学校長、昭和十二年四月唐津実業青年学校長になられました。その間に第二代西松浦郡教育会長、佐賀県教育評議員の要職に就任されました。叙正七位勲六等瑞宝章を受けられています。

●田中茂助(明治二十四年生)明治三十八年三月波多津高小卒。明治四十年四月二里第一 尋常小准訓導、波多津尋常小、大坪小訓導を歴任して昭和六年八月に退職されました。その後伊万里高等女学校書記として勤務されました。

●古賀セイ(明治四十年生)大正十一年三月波多津高小卒。大正十三年五月波多津小筒井分教場勤務、昭和二年八月退職されました。昭和十七年九月より波多津第二国民学校訓導となり、二十年三月退職されました。昭和三十五年より八年間中山で保育園を経営し幼児教育に力を注がれました。

 

【畑 津】

●中島訂治郎(明治二十年生)明治三十三年三月佐師卒、波多津出身者で第一号の佐師卒であります。明治二十七年四月より三岳小准訓導、二十九年四月佐師入学、卒業と同時に伊万里小訓導、明治三十九年八月朝鮮馬山日本小学校長として渡鮮されました。大正二年六月仁川公立高小校長、朝鮮教育会評議員となり、昭和七年三月現地で病没されました。五十四才でした。叙従七位勲七等瑞宝章を受けられています。

●原田徳之助(明治二十九年生)大正七年三月佐師卒。同年四月波多津高小訓導、黒川小、大坪小、伊万里小を経て昭和六年四月波多津尋常小校長に昇任されました。南波多第二小、東山代小、大山小校長を歴任し昭和十七年七月佐賀県視学神崎地方事務所教育課長、昭和二十年四月神崎小校長、二十一年四月伊万里小校長、二十二年三月退職されました。叙正七位を受けられています。

●山本登一(明治三十五年生)大正十一年三月佐師卒。同年四月大坪小訓導、二里小、大山小、西山代第一小、大山小、伊万里小訓導を歴任して昭和二十一年四月南波多第二小校長に昇任されました。波多津第一小、波多津中学校長を歴任され昭和二十六年三月退職し、波多津公民館長になられました。

●向 正子(明治三十六年生)大正八年三月相知村女子実業補習学校卒。大正九年四月波多津高小筒井分教場に勤務し、昭和十一年三月退職されました。

●原田 学(大正二年生)昭和九年三月佐師卒。同年伊万里小訓導、昭和十五年四月波多津尋常小訓導、昭和十八年三月退職し千葉市の市立日ノ出学園に勤務され、小学校部長となり昭和五十五年三月退職されました。

●向 阜子(大正元年生)昭和四年三月唐津高女卒同年四月東山代第一小准訓導、波多津尋常小、波多津高小准訓導から昭和十一年四月相知小へ転任されました。

●向 大進(茶木)(大正五年生)昭和九年旧制武雄中卒、十七年四月波多津小教諭、二十三年永平寺本山僧堂本科修了、二十七年一月波多津中教諭、三十二年通信教育により仏教大卒、三十六年四月波多津東小教頭昇任、四十二年四月伊万里小、四十四年四月波多津東小校長、四十七年三月同校退職、同年四月大本山永平寺副寺、五十三年四月佐賀県宗務所長、県祖門会長等を歴任、平成十年一月死亡。教育者として、また宗教家として曹洞宗の発展に尽力されました。

●井手芳子(明治四十五年生)昭和八年三月佐女師卒、同年四月黒川小訓導、同十年四月二里小、同十七年四月漂SAGA在満国民学校、同二十一年十一月引揚、同二十二年四月波多津第二小、同二十六年四月波多津小、同二十七年三月同校退職、退職後は筒井茂雄先生の指導による俳句会(青涛会)に入り世話人となり活躍されました。平成十年十月没。

 

【内 野】

●金子茂吉(明治七年生)明治二十一年三月三岳小高等科卒。明治二十四年八月三岳小准訓導、大町小、田頭小訓導、明治三十三年六月同校校長、牧島第一小校長から波多津高小訓導、有田小、北波多小、切木小、波多津高小、松浦小訓導をつとめ大正六年三月退職されました。

●金子フヤ(生年不明)明治三十七年三月佐師卒。大正九年一月行合野分教場から波多津高小に転任され、大正十五年三月退職されています。

●金子与一(明治十七年生)明治三十一年三月鬼塚高小卒、明治三十四年四月波多津高小准訓導、大正九年筒井分教場勤務、大正九年五月退職されました。

●井手東治郎(明治十七年生)明治三十八年三月佐師卒、同年黒川高小訓導、黒川第二小校長、西松浦郡教員養成所教員、波多津高小訓導、西山代第二小校長、有田小訓導、黒川高小校長、大坪小、外尾小、波多津高小、松浦小、伊万里小の各校長を歴任、特に伊万里小校長在任中に鉄筋三階建校舎落成、昭和十一年三月退職されました。その後浦之崎川南造船所青年学校長として、昭和二十年八月終戦まで勤務されました。

勲六等瑞宝章を受けられました。戦後は初代遺族会長、家庭裁判所相談員、地方保護司等をつとめられました。

●小杉定治(明治十七年生)明治三十九年三月佐師卒。同年四月波多津高小訓導、明治四十二年四月から七年間佐賀県師範学校訓導となり大正五年四月波多津高小校長、大坪小、伊万里小、西唐津小校長を歴任し昭和十二年三月退職されました。その後は植林育林にはげまれ、昭和二十六年から村議会議員、昭和二十九年から四年間市議会議員昭和三十九年から伊万里市老人クラブ連合会初代会長を八年間つとめられました。叙勲六等瑞宝章を受けられています。

●藤本東三郎(明治二十一年生)明治四十二年三月佐師卒。明治三十五年四月から三年間波多津高小准訓導、三十八年四月佐師入学、卒業と同時に大坪小訓導、大川小、二里小、伊万里小訓導を経て大正十二年四月黒川尋常小学校長に昇任、大川小・牧場第一小、曲川小、波多津高小、伊万里小の各校長を歴任して、昭和十二年三月退職されました。

●小杉吉右工門(明治二十六年生)大正六年三月佐師卒。明治四十二年四月から四年間波多津高小准教員をつとめて、大正二年四月佐師入学、卒業と同時に再び波多津高小訓導となられました。大正十二年四月大山小へ転任され、文学青年教師として、また研究主任として活躍、大正十五年三月病気のため退職されています。将来有為の人材と嘱望されていたので惜しまぬ人はありませんでした。

●鶴田ツグ(明治三十年生)大正四年三月唐津高女卒。同年八月大坪小准訓導、大川内小を経て大正七年一月筒井分教場に勤務されました。

●小杉ツサ(明治三十二年生)大正八年三月佐師卒。同年は波多津高小訓導、曲川小、波多津高小、波多津公民学校に勤務され、昭和十七年三月退職されました。教職二十四年、その内二十年間を郷土の学校教育に専念されました。退職後は浦之崎川南青年学校で教鞭をとり、昭和二十年八月終戦により退職されています。その後は婦人会役員として社会教育に努力されました。

●井手興平治(明治三十三年生)大正十一年三月佐師卒。同年四月小城郡古湯高小訓導、同十三年三月伊万里第一小、昭和七年四月伊万里第二小(牧島小)、昭和十一年四月同校首席訓導(教頭)昇任。昭和十五年三月退職されました。その間農業補習学校や公民学校の助教諭も兼務されています。退職後は親族の経営する山梨甲府市のナショナル系列の甲府工場の役員として勤務されました。

●小杉政治郎(明治三十五年生)大正十二年三月佐師卒。同年西山代第二小訓導、波多津高小、伊万里小、黒崎小訓導を経て、昭和十六年七月平原小校長に昇任、七山小校長から昭和二十二年四月佐賀県指導主事となられました。二十三年四月鬼塚小校長、北波多小、浜崎小校長を歴任し、昭和三十二年九月退職、同年十月より呼子町教育長を三期(十一年) つとめられました。叙勲五等雙光旭日章を受けられました。

●井手アヤ(明治三十七年生)大正十一年三月唐津高女卒、同年十一月波多津高小准訓導となり、大正十三年十一月退職されています。

●金子武美(明治四十一年生)昭和三年三月佐師卒。同年有田小訓導、波多津高小、大山小、東山代第一小、山代第一小、山代実業青年学校、波多津実業青年学校を経て波多津中教頭となり、昭和二十五年四月大平小学校長に昇任、波多津小、黒川中校長在任中昭和三十四年七月死亡退職されました。

●鶴田玄海(明治四十一年生)昭和八年三月宮崎高農卒、同年熊本県立鹿本農学校教諭、同県立葦北農から伊万里農林高、黒川中、波多津中、伊万里農林高教頭、昭和二十八年十月同校へ出勤途中に病没されました。

●藤森トキ(明治四十二年生)大正十五年三月波多津農業補習学校卒。昭和二年八月筒井分教場准訓導に就任以来七年七か月間、分教場の教育に専念され、昭和十年三月退職されました。

●藤森力造(明治四十四年生)昭和九年三月京都高等蚕糸学校卒、同年福井県天津村青年学校教諭、昭和十二年南波多第二青年学校、鏡村青年学校、波多津村青年学校、波多津中教諭を経て、昭和三十八年四月波多津東小校長に昇任、波多津中校長を歴任して昭和四十四年三月退職されました。教職三十五年のうち二十五年間の永い期間を、波多津の学校教育に尽瘁されました。

●金子ハルミ(明治四十五年生)昭和六年三月佐師卒。同年波多津高小訓導、二里小、曲川小、大山小訓導を歴任し、昭和十七年十一月退職、昭和十九年十一月波多津村立実業青年教諭となり昭和二十一年三月退職されました。

●藤本満東(大正四年生) 昭和十六年三月京都大法卒、上海海軍衣糧廠に就職、終戦により引き揚げ、昭和二十二年四月伊高女教諭、二十六年十一月県教職員課勤務、二十九年四月県学校教育課指導主事、高等学校係長、四十一年四月より五年間唐津商校長、四十六年四月県学校教育課長、五十年四月より二期八年間伊万里市教育長を歴任し昭和五十八年三月退任されました。その間教諭四年六力月、校長五年の高校勤務で、二十六年六力月に亘り行政職にあって、卓越した識見と抜群の指導力を発揮し、本県教育の振興教育の発展に尽力されました。

●金子エイ子(大正七年生)昭和十三年三月佐師卒。同年黒川高小訓導、波多津高小訓導を歴任し昭和十八年三月に退職されました。

●小杉敏寿(大正八年生)昭和十四年三月佐師卒。同年伊万里小訓導、黒川第二小、昭和十八年三月満洲国に渡り、奉天瀋陽在満国民学校訓導、二十年七月現地陸軍召集、同年九月ソ連抑留、昭和二十四年十月引揚げて、二十五年一月より波多津中、山代中、大川中、黒川中、曲川中、西有田中、牧島小、東山代小、国見中を経て昭和四十六年四月山代西小校長に昇任、黒川小、東山代小、大坪小各校長を歴任して昭和五十四年三月退職されました。その後社会教育指導員、歴史民族資料館長をつとめられました。

●金子末松(大正二年生)昭和九年三月佐師卒。同年二里小訓導、十年九月東山代小、十四年四月伊万里小、二十二年四月松浦小、二十三年四月黒川小、二十八年四月大坪小、三十二年四月波多津東小校長に昇任、三十四年四月市教委指導主事、三十六年四月杵西教育事務所指導主事、三十七年四月松浦中、三十九年四月杵西教育事務所長補佐、四十一年四月南波多中、四十二年四月伊万里小校長、四十八年三月同校を退職、平成十年一月死亡。平成十年勲五等瑞宝章を受けられました。

●井手東太郎(大正四年生)昭和十年三月佐師卒。同年黒川高小訓導、十三年四月波多津高小、十六年三月佐師専攻科卒、同年二里小、二十年四月滝野小教頭昇任、二十三年四月波多津東小、二十六年四月波多津小、三十二年四月大坪小、三十四年四月伊万里小、三十六年四月伊万里中、三十八年四月牧島小校長、四十年四月二里小、四十一年四月市学校教育課長、四十三年四月杵西教育事務所長補佐、四十五年四月大坪小、四十七年四月伊万里中、五十年三月同校長退職、五十一年五月市立図書館長、五十四年四月市立幼稚園長、五十八年七月から六十二年八月人権擁護委員等に貢献されました。平成九年五月死亡。勲五等端宝章を受けられました。

●藤田平太(大正二年生)昭和八年三月佐師卒。同年波多津高小訓導、昭和十六年三月佐師専攻科卒、同年波多津高小復職、同二十二年四月波多津小教頭昇任、二十六年大坪小教頭、二十八年四月大平小校長昇任、昭和三十一年四月筒井分校との統合により波多津東小となり初代校長、昭和三十二年四月杵西教育事務所長補佐、昭和三十六年四月波多津中校長、同三十九年四月伊万里市教委学校教育課長、同四十一年四月波多津小校長、昭和四十三年四月伊万里中校長、同四十七年三月退職、その後市青少年問題協議会委員、市立図書館長五年、市郷土研究会事務局長、市明るい選挙推進協議会長十二年、裁判所調停委員十一年、民生委員、児童委員、国民年金委員など歴任されました。教職三十九年中の二十七年間を郷土波多津町内の小中学校に勤務して波多津の教育の振興と後継者養成に尽力されました。特に波多津東小が太平と筒井分校の統合については校区内の意見集約をはかり、統合後の施設整備教育充実に献身的に努力されました。学校教育、教育行政、社会教育にすぐれた手腕を発揮され、多大の貢献をされましたので、平成八年春の生存者叙勲、勲五等瑞宝章を受けられました。

●小杉東太(前田)(大正二年生)昭和九年三月佐師卒。同年四月伊万里小訓導、同十六年四月より佐師専攻科入学、同十七年四月大坪小、同二十年四月東黒川小教頭昇任、同二十五年四月波多津中教頭、同三十一年四月伊万里小教頭、同三十四年四月波多津東小校長、同三十六年四月市指導主事、同三十八年四月市学校教育課長、同三十九年四月波多津中校長、同四十二年四月大坪小校長、同四十五年波多津中校長、同四十八年三月同校退職、在職中造形教育に尽力、市郡中体連会長、県中体連副会長をつとめられました。退職後は市社会教育指導員として成人教育に精励され、市スポーツ主事、市体育協会理事長として活躍され内閣総理大臣より体力づくり最優秀賞を受ける原動力となられました。

●井手彰潤(昭和三年生)昭和二十七年三月大谷大卒、同二十七年七月波多津中教諭、同二十九年四月有田中、同三十一年四月黒川中、同三十二年四月東山代中、同三十三年五月国見中、同三十八年四月山代中、同四十三年四月国見中、同四十五年四月伊万里中、同五十年四月黒川中、同五十三年四月国見中、同五十四年四月滝野中、同五十九年四月大川中教頭に昇任、同六十年四月山代中、同六十一年四月国見中教頭、平成元年三月同校を退職されました。内野法徳寺の長男に生まれ後継者としての教育を受けられましたが弟に僧侶をゆずり教師道を選ばれました。スポーツマンで中学生の野球・ソフトボールの顧問として活躍されました。平成八年五月死亡。

 

【煤 屋】

●鶴田タチ(明治四十二年生)昭和二年三月唐津高女卒、昭和三年十一月波多津尋常小准訓導となり昭和五年三月退職されました。

●鶴田タイ(明治四十四年生)昭和三年三月白石高女卒。昭和十年四月東山代村公民学校助教諭、十五年三月退職、更に昭和十七年四月波多津村実業青年学校教諭となり、十八年四月伊万里町青年学校に転任し、二十一年三月退職されました。その後波多津町婦人会長もつとめられました。

●鶴田ノブ(大正十一年生)昭和十六年三月唐津高女卒。同年四月波多津第一小助教諭に就任し、二十年三月退職されました。

●鶴田チホ(大正十四年生)昭和二十年三月佐師卒。同年黒川第一小教諭、波多津小、波多津中に勤務して昭和二十四年一月退職されました。

 

【馬蛤潟】

●柴田定五郎(明治十九年生)明治三十八年三月唐津中卒、同年鬼塚高小代用教員、明治三十九年二月より四十三年三月まで波多津高小准訓導、その間課外活動として野球や剣道の指導を行われました。 退職して上京されています。

●井手庄太郎(明治二十年生)明治三十八年四月から四十二年三月まで波多津高小准訓導をして退職されました。

●山口東一(明治三十九年生)大正十五年三月佐師卒。同年伊万里小訓導、昭和七年四月から三年間佐賀県師範学校訓導、昭和十年四月大川小訓導、曲川小、松浦小、伊万里小を経て二十年四月曲川小校長に昇任、二十三年四月大坪小校長となり二十六年三月退職されました。その後、身障者の教育施設富士学園に勤務されました。

●辻 スカ(明治三十二年生)大正七年三月唐津高女卒。同年西山代第一小准訓導、筒井分教場、波多津尋常小、波多津高小訓導を歴任し昭和十七年三月退職されました。在職二十四年間のうち二十三年間を波多津の学校教育に尽瘁されました。

 

【辻】

●竹田順太郎(明治十三年頃生)明治三十四年三月佐師卒。明治二十八年四月波多津高小代用教員、明治三十年四月佐師入学、三十四年三月卒業と同時に波多津高小訓導、三十五年六月伊万里小訓導として転任されています。その後不明です。

●田中光夫(明治三十九年生)大正十五年三月佐師卒。同年波多津高小訓導、昭和四年三月退職し広島高師に入学、卒業後は旧制中学校の教論、校長を歴任し戸畑明専教授、第一経済大学教授になられました。

●筒井茂雄(明治四十四年生)昭和五年三月佐師卒。昭和八年三月東京美術学校卒。同年より旧制中学校の美術科教諭を経て、昭和二十四年四月佐賀大学教育部助教授、三十年同大学教授になられました。三十三年より二年間附属小校長併任、四十八年より二年間附属幼稚園園長併任。昭和五十一年三月定年退官されました、その間に日展入選十二回、東光展で三星賞受賞、東光会委員、油絵やデザインを専門として、美術科教員育成に尽瘁されました、なお俳句に造詣が深く指導者としても活躍されました。叙勲正四位勲三等旭日中綬章を受けられています。

●田村佐多雄(明治三十六年生)大正十三年三月佐師卒。同年波多津高小訓導となり、昭和十七年三月退職するまで十八年間波多津の学校教育に尽力されました。畑津田嶋神社宮司を兼務されていた為、大東亜戦争が熾烈となり出征兵士の武運長久祈願が頻発したので、早く退職されたものと思われます。

●渡邊正美(筒井)(大正四年生)昭和九年三月佐師卒。同年波多津高小訓導、昭和十五年三月佐師専攻科卒、同年松浦小訓導、同十七年四月大川小、同二十二年四月大川小、二十四年四月大川中教頭昇任、三十一年四月市教委指導主事、三十四年四月杵西教育事務所指導主事、三十六年四月東山代小校長、三十八年四月大川小 四十二年四月大川中、四十九年三月、大川中校長退職、四十九年八月市教委社会教育(同和)指導員、五十五年四月学校同和教育指導員、六十年三月退職、特に昭和四十六年、文部省、県教委から同和教育研究の指定を受けて、研究実践を続け、以後被差別地区のこどもの学力保証、同和教育の普及啓発活動に昭和六十年三月まで十五年間献身的に尽瘁され、県同和教育の先導役を果されました。平成八年六月死亡。勲五等瑞宝章を受けられました。

●市丸定雄(大正六年生)昭和十二年三月佐工卒、同十二年四月佐世保海軍工廠入社、同十三年十二月満鉄入社、同二十一年三月引揚、同二十一年四月田中造船所勤務、同二十二年十月波多津中助教諭、同二十七年十月同校教諭、同三十二年四月黒川中教諭、同三十六年四月波多津中教諭、同三十九年四月黒川中教頭昇任、同四十二年四月国見中、同四十四年四月伊万里中教頭、同四十六年四月牧島小校長に昇任、同四十七年四月波多津東小、同四十九年四月波多津中校長、同五十二年三月同校退職。二十九年六力月の教職の中で十四年六力月を波多津町内の小中校に勤務して後輩の指導に尽力されました。退職後は北波多村徳須恵に住居を移転し平成九年三月没。

●樋口ツユ子(大正六年生)昭和九年三月伊高女卒。同十五年四月波多津高小准訓導、同十六年五月筒井分教場、同十七年五月波多津高小、同二十二年六月同校教諭、同三十二年四月黒川小、同三十八年四月波多津小教諭、同四十三年四月波多津東小、同四十七年四月波多津小、同五十一年四月退職、教職三十五年間のうち二十九年間を波多津町の子どもの教育に貢献されました。平成九年十一月没。

 

【弁 賀】

●高森虎太(大正八年生)昭和十五年三月佐師卒。昭和十八年九月東京高師卒、大東亜戦争が熾烈となり、繰上げ卒業して海軍航空隊に入隊され、特攻隊員として終戦まで国の護りにつかれました。終戦後は義父の経営される東京双葉電線に就職、現在社長であります。

 

 以上平成十一年一月現在、波多津出身の教育者で故人及び遠隔地在住者・町内の長老の略歴を記しましたが、偉大な先輩の功績に深甚なる敬意を表します。退職者で現在生存している人は男二十三名、女十九名です。現に教職にある人は男十九名、女九名で計二十八名で佐賀県内小、中、高の学校で波多津出身の誇りをもって活躍しています。

 

 

(波多津出身で、平成十年三月までに退職・生存し、市内及び県内に在住する者)・出身集落別に氏名(旧姓)及び( )内の上段は波多津町内の学校に勤務した年数、下段は教職年数を表わす。

 

〔木場〕

中西栄哲(五・六、五・六) 長谷川(田中)コトノ(三〇、三九) 井本郁子

 

〔筒井〕

石倉(市丸)秀信(二、四〇)

 

〔井野尾〕

小島輝雄(二〇、三五)

 

〔田代〕

谷崎君恵(三、一八・四)  高柳憲男(ニニ、◎)

〔中山〕

古賀(田中)善夫(〇、三九) 金子ヒナ子(一〇、一〇)  金子(片渕)利恵(五、三〇)

 

〔畑津〕

山本政千代(〇、二一・三)  原田八郎(一、三九) 大久保ミサ子(四・五、五・八) 前田トシ子(一九・一〇、三三・一〇)  古賀(小杉)正枝(三、三)

松本武明(一三、三九)  田中(坂本)照(二、四〇)  松本辰夫(一三、四一)

近藤(山本)澄子(一七、四一)  井手豊子

 

〔内野〕

井手エミ(一・八、一・八)   井手キヌ(一五、二五)  小杉敏夫(一四、三七・一一)

小杉俊子(一九、二一)  井手ミチ(五、五)  藤本壽幸(一〇・四、三六・四)

坂本スミ子(七、三九)  丸田(小杉)光也(一五、四〇) 山口(井手)文子(三、三三)  原田久美(高校、三八)

 

〔煤屋〕

田中良雄(一三、四〇)  原口(佐伯)辰巳(四、四一)  田中正次(一、一)  

泉建一(〇、三八)

 

〔辻〕

古川稔(二八・一一、三九・一一) 田中フネ子(三、三) 鶴田(末吉)英代(九、三八)

栗原(田中)正明(三・三、三・三)  森キミ    筒井(谷崎)忞(ニー、三八)         

古川フミ子(ニニ、三〇・三)  杉本茂助(七、七)  高森保(四、四二)     

田中(橋口)武美   畑山和代

 

〔弁賀〕

高森勤(二五、四〇)  渡辺(高森)イズミ(一五、三八)

 

以上の人たちは、退職後社会教育や地域の活動のリーダーとして活躍しています。