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第十章 集落史(馬蛤潟)


第十章 集落史(馬蛤潟)
(2021年11月29日更新)

馬蛤潟

一、集落の誕生

おおかたの集落は、いつごろ、どうしてできたのか、はっきりしないのが普通ですが、馬蛤潟の場合は、宝永五年(一七〇八)二十二町歩余の馬蛤潟新田完成後、正徳二年(一七一二) から入植が始まり集落が誕生しています。(詳細は第八章産業の項参照)

その後、唐津藩は、入植者一人に付、年間米三俵を三年間貸与したり、家屋の建築に便宜をはかる等(馬蛤潟新田思召立覚帳)の施策を講じていることからしても、新田が、すぐに生産に結びつくものではなく、耕作はもちろん、普段の生活にも相当の苦労があったものと推測されます。

また、新田に入植が始まってから、およそ一〇〇年後の文化年間頃(一八〇四~一八一七) の反当り収穫高は、周辺の集落と大差はありませんが、年貢率が周辺集落の六割前後に対して、馬蛤潟新田の年貢率が三割二分四厘(松浦拾風土記)と非常に低いのも、ひどい塩害や水害等の悪条件が斟酌されてのことではないかとも思われます。

二、集落の運営 -初会議協議事項綴から-

馬蛤潟には、当年度の運営に関する初会議の重要事項を記録した綴が、明治三十八年分からあり、区長代々の引継書類となっています。これによると、当時の村の生活や変遷の一端が察知できます。

明治四十五年の初会決議事項を書き出してみますと、

一、農区事業トシテ春秋二回(一回三人ヅツ)農事視察ヲナス、但シ方向ハ視察員適宜ニ任セ、手当金ハ一人ニ付一円ヲ給ス

一、青年夜学会ノ費用ハ前年ノ通リ補助ス

一、今年ヨリ穀物ノ御初穂蓄積ヲナス

一、畦道、ヨセ処、三隅ノ脇道ハ盛土ヲナシ修理スルコト

一、田ノ畦畔、今春必ズ(ひろ)ムルコト、又 畦元株耕シ謹シムコト

一、道路ニ接近シテ植物ノ栽培ヲナスベカラズ、又果樹等モ隣地ノ妨ゲヲ為スモノハ枝払ヲナスコト

一、米講、金講発起又ハ終リノ際、ヒラヲ除キ、吸物ハ全体ヲ除ク。又、講数多キ者ハ合併開札ヲナスモ妨ゲナシ

一、字会、諸役目ノ遅刻処分法ハ前年ノトオリトスル

一、字内ニ於テ火災ニ遭遇シタル時、義損寄付トシテ共有金ヲ使用スルコト、ソノ額ハ場合ニ依リ定ム

 一、今年度ニ於テ消防機買入レヲナス

一、八坂大神ノ御幸行ニハ、必ズ一戸一名ヅツ往復オ伴ヲナスコト

一、祝祭日改正 天神講二月二十五日八月二十五日    川祭春秋  雛祭四月三日 幟節句五月二十七日

御日待一月十八日  伊勢講一月、九月、十一月の各十一日

当日ノ会費 前年通リ

一、船渡金十八円 八円与市二円東作 八円幸助  二円松右エ門 渡方六月八日六月九日

納入期日 三月二十五日、五月二十五日、九月二十五日、十二月二十五日

とあり、二・三の事項を割愛しましたが、現在にも通用する取決めもあり、運営の確かさが伺えます。

三、力武新田の沿革(第八章産業の項参照)

四、まつり

(1)竜神まつり(ひげいもまつり)

既述の馬蛤潟新田の干拓工事は、大変な苦労があったようです。特に、激寒の正月から始められた大堤防潮止め工事と樋門の難工事は、寒さと疲れとの闘いでもあったようです。近隣の村から寄せられた五〇〇人、八〇〇人、時には千人からの百姓土工たちが、激寒時に昼となく夜となく、所謂潮干工事(昼夜に関係なく干潮時に作業をすすめる工法)で強行、三月には完成するという驚異的なはたらきと苦労があったようです。そのご恩に感謝して、毎年、一番寒い旧正月の元日に、全戸一人づつ、田嶋神社に集まって、報恩感謝と豊作祈願の神事を行います。その中で「えそ」(当日の準備・世話役)の給仕で、ごくうさま(白飯) に、ひげのついた里芋の潮煮をのせ、御神酒をかけていただきます。食事も休憩も、ゆっくりできなかった百姓土工や、工事に携わった人々のご苦労を偲び感謝する祭りです。

(2)祇園祭り

以前は旧六月十五日がお祭りでしたが、現在は七月十五日になっています。当日は、畑津の田嶋神社より御神降になり、馬蛤潟堤塘で神事があります。以前は町内はもとより、町外からも参詣者が多く、出店が立って賑わいをみせていましたが、今は神事と少数の参詣者があるのみで淋しくなりました。

(3)馬頭観世音・観音様のまつり

公民館前に「牛魂の碑」があります。昭和八年八月建立されたもので、碑文には

「馬蛤潟区産業の一助として飼牛を肥育し、年々之を屠殺場に送る 而も人類営利のためと雖も 此の犧牲者たる無慈悲の動物に対し同情と感謝なき能はず(後略)」とあり、毎年八月十日、馬頭観世音と道上の観音様のお祭りを一緒に、田嶋神社宮司を招き慰霊の神事が行われます。

(4)豊作祈願と龍神社

二百十日は、古くから台風による被害が心配される時期で、この日は村中が集まり龍神社に安全を祈願しています。祈願祭典後は、公民館に一重を持参し、お神酒が振舞われ酒盛りが行われています。

二百二十日、この日も時間を定めて参詣しています。

また、二百十日から二百三十日までは、毎日夕方、祈願のため灯明を捧げています。こうして、二百三十日が過ぎると、都合を見て御願成就のお礼詣りがあります。

尚、年間を通して、月の一日と十五日は、家回しで龍神社に灯明を捧げ、家内安全と五穀豊穰のため参詣しています。

この龍神社は、明治四十年九月、田嶋神社に合祀されましたが、海上安全、五穀豊穰、地域住民の守護神として分祀され、今でも氏子の崇敬を受けています。

祭神は海童命・宮司は大川野の田中義矩、木造瓦屋根、創建年代不詳

田嶋神社への合祀願文

無格社 龍神社

右ハ信徒少数ニシテ累年久シク(退)廃シ、到底維持ノ見込無之而(ヤム)ナラズ祭祀迄モ行届キ

兼不候間今般仝村畑津村者田嶋神社ヘ合祀仕度候間、御許可被成下別紙双方明細書添属信

徒惣代並ニ社掌連署ノ上此段奉願候也    明治四十年三月二十八日

社挙 田村力太郎 信徙惣代 辻兼太郎 井手宇太郎 柴田友太郎

この願によって、同年八月、佐賀県指令収佐第四十七号をもって合祀が許可されています。