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第十章 集落史(畑津)


第十章 集落史(畑津)
(2021年11月29日更新)

01

畑津

一、「畑津」の地名

「はたつ」「畑津」の地名が、いつごろから呼ばれるようになったのか、どんな由来があるのか、將又、集落がいつごろできたのかもわかりません。伊万里市史にある古文書や絵図から、畑津或いは畑津付近を指して呼ばれたであろうと思われる地名を抜粋してみますと

「波多浦」康和四年(一一〇二)     「八田津越道」前同

「波多津西崎」治承四年(一一八〇)   「波多里道」文永六年(一二六九)

「はたつの浦」正中三年(一三二六)

「波多津」慶長年間(一五九六〜一六一四)

「畑津村」宝永三年(一七〇六)

とあり、「波多浦」「八田津越道」が初見だとされています。畑津を「浦」「津」「崎」と呼ばれても当時の地形から推して不思議ではありませんが、以上の資料では間があきすぎて、特定することは難しいようです。尚、想像を拡げて、後述の御嶽城主の名に、「波多津」「畑津」の冠称があることも、集落名と関係がありそうに思えます。

二、波多三河守支配のころ

(1)御嶽城と城主たち

標高二三三m、三岳の中腹、東寄りに御嶽城があり、城主が畑津及び付近を知行していたようです。

そのことを、二・三史書から拾ってみますと、

(1)「波多津太郎増、即波多津を知行す、頃は建武((一三三四)()(三五))と見えたり。御嶽の城畑津村に在り、右畑津太郎増の居城なり。其後 畑津内記と云仁、此城に居城して此所を知行す。墓所あり。」(松浦昔鑑)

(2)「御嶽城 久多五郎築く。波多三河守家臣 畑津平内藤原清和 畑津御嶽城 三〇〇石。同家臣 畑津左京藤原清貞 同所 無禄。」(松浦古事記)

(3)「(前略)御嶽城の遺構は、石垣囲いの本丸をはじめ、土塁、空堀、櫓跡が認められる。」

(肥前戦国武將史 木原武雄著)として、城の要図が添えられています。

以上のことから、城の存在は確かだと思いますが、築城したのは久多五郎としても、いつかはわかりません。町内の城後城・法行城・木場城の築城年代(九五〇年頃から一三〇〇年頃) や、前述の波多津太郎増が居城したとされる「建武のころ(一三三四~三五)から推察するほかありません。

いずれにしても、最後に居城した畑津内記まで三〇〇年余、岸嶽城の支城として努めましたが、文禄三年波多三河守の没落とともに廃城となりました。以後今日まで四〇〇年余、今は石ころの多い山林で、城跡を確認することは難しいようです。

(2)波多三河守の処分と大評定

文禄元年(一五九二)、名護屋に布陣した秀吉の朝鮮出兵に応えて、三河守は鍋島軍に編入され、三月、兵二〇〇〇(雑役軍夫等もふくめたか。七五〇騎とも)を率いて、波多津港から出陣しました。二年余の戦いで、七五〇騎の過半数も討死にする程の働きをし、文禄三年二月帰国しましたが、三河守を待っていたものは「上陸すべからず、領地は没収、身は徳川家康に預ける」という処分でした。まもなく、同年五月 譴責状(処分の理由を述べたもの)とともに、常陸国(茨城県)筑波山麓に配流先が申し渡されました。

このことが岸嶽城に報らされると、城内外あげて驚き、家臣らは馳せ参じて善後策についての大評定が開かれました。大評定には、鶴田越前守をはじめ、一族旗下家臣らが集まっています。勿論、畑津御嶽城の畑津内記、板木法行城の久我玄蕃允、木場城の隈崎素人も参加しており、評議は区々、大激論が交わされました。その議論の一部を抜粋しますと、

「某思うに、今名護屋御陣に切り入り八方に乱入し、潔ぎ能く討死せん事末代までの名誉なり。…城地を明け渡さぬ内、夜討ちの用意すべきなり」(隈崎素人・木場城)と、「血眼になりて申しける」

過激派の意見や、「一先づ城を明け渡し、知るべ知るべに引退き、忍び忍びに会合して謀計を廻らし、配所の主君を守り奉り一勢に旗を上げ、其時こそ討死して名を後世に残すべし」 (田代日向守)とした自重派。これに反論して「その評定もさることながら、とても今趣意を通さずば期して都に攻め登らん事思いもよらず…其存る所は、御母子佐嘉表へ送りまいらせ、名護屋の御陣へ忍び入り、一時に放火して焼き払い、火焔の中にて討死すべし」(井手飛騨守・向三郎・畑津内記)とする意見が出る等、なかなかまとまらなかったようです。このような評定が何回も続けられたことでしょう。

結局は、「其主たる人なくしては成就しがたし」(黒川左源太夫・鶴田因幡守)の意見で、密かに常州へ赴き、主君を連れだすことで決着しているようです。(松浦拾風土記・岸岳城盛衰記)

(3)波多家臣の末路

主君のない岸嶽城は、まもなく明け渡され、所領は志摩守に譲渡されました。その上、主君三河守の死亡説が流れ、かすかに再興の悲願を抱いていた家臣等は、その総てを失い、四散し、その殆どが刀を捨て帰農したが、中には仏門に入る者もあったようです。中でも、悲壮なのは、激しい怨みを抱きながら、主君の後を追い殉死した多くの人々もあったようです。(岸岳城盛衰記)

「松浦古事記」には、文禄三年三月八日三十名、九日に四十七名の人が、城中、茶園の平、瑞巌等等で辞世の句を残し、或いは無念の涙とともに殉死したとあります。この中に、御嶽城主「畑津内記光方・大道月仙居士」の名があがっています。(殉死の期日は、主君の命日を九日-配流の日-としたため、それに合わせた作為であろう、と岸岳城盛衰記にはあります)

しかし、怨みは殉死だけでは終わっていないようです。

事は慶長五年、関ヶ原の戦いに従軍していた志摩守の留守をねらって、唐津を襲撃する反乱が起こりましたが、平戸藩主の応援で「自ら(つい)えた」とあります。この反乱軍が誰であったかわかりませんが、この地にあって、反乱を起こす程の者は、波多氏残党以外に考えられないと述べてあります。前述の大評定の様子からも反乱は予知できるようです。しかし、志ならず、事ここに至っては、悲願もむなしく怨念のみを残して、あちこちにおいて自決したものであろう、と推察されています。主君配流から六年後のことです。(前同書)

また、殉死や自決に限らず、四散した地で生涯を閉じた岸嶽末孫の墓と聞く五輪塔が、畑津にも何か所かあります。粗末にすると末孫のたたりがあるとか聞きますが、こうした由来によるものでしょうか。

ただ 史家の間では、史実と伝説の区別がつかなくなっていることも指摘されています。

尚、後代になりますが波多領を受けついだ唐津藩では、浪人となった武士たちの何人かを取立てているようです。

「松浦要畧記」には、「波多浪人の者共被召寄 大川野郷組に参拾人御取立(中略)其後小麦原、畑津、中嶋にて武拾四人御取立、国境相守る儀被仰付候(後略)」とあり、

大庄屋・小庄屋にも旧波多家臣の中から登用されている例もあるようです。

三、唐津藩政のころ

畑津村は、文禄三年(一五九四)以来藩籍奉還まで二五〇年余、唐津藩領畑川内組(畑津村外十か村)に属し、各村に小庄屋がおかれ畑川内村におかれた大庄屋が、同組を統括しました。史書に畑津村庄屋・中島林平家貞・中(不詳)良八の名がみえますが、ほかにもあろうかと思います。

この頃の村のようすを示す一端として、伊万里市史に次の史料があります。

畑津村 石高 (元和検地以前・文禄年中波多氏の検地か) 一五八石四斗七升四合

元和検地高(元和二年・一六一六、寺沢志摩守の時)二二〇石四斗三升

田畑高 (一七〇〇年後半、水野和泉守の時)   三〇〇石 七升

史料でみる限り、時代を経るにつれて田畑高は増加しています。考えられることは、技術の進歩もあったとは思いますが、新田の開発(小学校付近)や小規模な田畑の開墾、かん漑水利の整備(溜池・井堰・水路)、水利による畑地の田地への作替え等、農民の知恵と努力が考えられます。水洗・前田・厥野の溜池、波多津川の数か所の井(せき)、山際のぎりぎりまで開かれた田地等は、いつ、だれが作ったかわかりませんが、それぞれに期待と希望がかけられて作られたに違いありません。

しかし、田畑高がふえたといって、一概に喜ぶわけにはいかなかったようです。

「唐津領惣寄高」にある畑津村の田畑高に対する免(年貢率)は、「六ツ二分三(六割二分三厘」と高く、謂所六公四民の厳しい取立てに苦しめられていたようです。(第四章に詳述)

畑津に限らず唐津藩では(時代によっては)、三斗三升をもって年貢米三斗俵としたり、枡に米を山盛りに積らせ、手前半分だけをかき落とす計り方をしたり、後には、年貢米用枡として京枡より一割程容量の大きい納枡を作らせる等々。特に定免制下では、豊凶にかかわらず定量を納めなければならず、石盛りも、高く検見されたとなれば、六公四民どころではなかったと想像します。

勿論、土井公等の仁政もありましたが、藩財政の如何によっては、一人一日一文の日銭や畳税を課す年もあったようです。(伊万里市史)

四、明治維新以降

(1)畑津村の属する行政区

詳細は、本誌第四・五章にありますので、属する行政区の呼び名だけを列記します。

明治五年二月まで  松浦郡 畑津村

〃   二月から  松浦郡 第三二大区第二小区 畑津村(大区小区制施行)

(以後、八年・九年大区小区の改正がある)

〃十一年七月から  西松浦郡 畑津村    (大・小区制廃止)

〃二十二年     西松浦郡 大岳村 大字畑津

(畑津に村役場がおかれた。三七年移転)

明治三十四年    西松浦郡 波多津村大字畑津

(2)道路の変遷

国道二〇二号線と二〇四号線を結ぶ県道馬蛤潟新田-徳須恵線が、畑津を西から東へ縦断しています。この道路も、過去、中山峠・三又路付近に、何度かの新設改修があったようです。

(イ)集落の東端字立輪から中山峠へぬける区間は、北は山、南は谷、しかも、勾配も相当あって、道路建設上も通行上も難所でありました。古くは、図(1)のように 立輪の県道から一〇〇m程南東に入り、馬頭観音のある山の麓を通って峠に出る道が主要道でした。今も残っています。

古老の話では、昭和三年頃、図(2)のように谷を通した曲折の多い道路が新設されています。道幅は相当広くなりましたが、砂利道の頃は、依然難所でありました。特に自転車・車力・ リヤカー・馬車が運搬の主要具であった頃、荷でも積んでおれば、村の中程を過ぎると後押しの助勢が必要でした。

また、自動車の時代に入っても、先のみえないカーブや、離合も難しく、更に、昭和四十二年、福島橋の開通・高度経済成長の波とともに、通行量・大型車共に増え、一段と危険が増しました。こうしたことで、昭和六十年頃、図(3)に示す現在の道路が新設されています。

(ロ)一方、波多津小学校校門前から、三又路に至る道路図(5)は、昭和十八~十九年頃新設されたもので、それ以前は、校門前から波多津川沿いに東上し(図(4))、下田橋で左折して田嶋神社前に出ていました。伊万里から浦へ通う西部(西肥)バスも、ここを通っておりました。

聞くところ、三又路から校門前の道路は、当時、徴用された十数人の韓国人労働者が、今の体育館近くにあった武雄某の納屋を宿舎にあて、区有地であった三又路の山を崩し、トロッコで土砂を運んでできたものだそうです。終戦前の緊迫した時期で、衣・食にも事欠く中、食糧増産・一億総武装が叫ばれる頃でした。

この道路も改修が加えられ、昭和五十年には舗装・通学路もでき、更に近年拡幅整備されて、街路樹のある歩道までできています。

(3)波多津採石と三岳

有限会社波多津採石は、多久市に本社をもつ(株)タニグチグループの一つ。

昭和四十一年、某氏が、ここ三岳の現在地に採石場を開設、翌四十二年八月に(株)タニグチが買収、操業が始められて現在に至っております。三岳の岩石は玄武岩で、生コンクリート用の碎石として最適の岩質をもつそうです。しかも、表土が少なく、各地への運搬にも便利という好条件の中、規模も徐々に拡充され、当初三反歩程のものが、現在では二十二町余、月産二五〇〇立方メートルにも達しています。

一方、三岳の山は、畑津のシンボルとして秀麗を誇り、遠足で登ったり、校名に使われたり、運動会の応援歌にも歌われておりました。「三岳山下に秋満ちて、黄金の波のゆれるとき」とは、運動会が近づくと、誰が指導するでもなく歌われておりました。これも終戦前のこと、運動会は十月十日と決まっていました。

その三岳も、西側は採石されて姿を変え、頂上は崩落して低くなっています。三岳には、私有地と区有地があり、その判断には、いろいろと苦慮されたと聞いています。

註 これまで引用した古書の中には、その内容に信憑性を疑問視される史家があることを付記します。