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第十章 集落史(田代)


第十章 集落史(田代)
(2021年11月12日更新)

 田代

一、集落の地勢

 行合野川が釈迦堂の岩壁にさえぎられて、大きく方向を変え、南から田代に流れ込んでいます。一方、集落の中央、柳ノ内の窪地全面に掘られた大溜池から流れる田代川がこれを迎えて、流れはやや太り、田代の田をうるおしています。

 三方が山に囲まれた小さな集落で、総面積も〇・八k平方メートルに過ぎません。「田代とは、古くから水田が開かれ、稲作が行われた所につけられた地名」とは聞きますが、何しろ耕地面積(後述)が狭く、昔から「田代は百人以上は食わせきれない、百人までが精一杯」とも言われており、耕地の狭さが田代の宿命とも思われます。

 因みに、唐津藩時代、文化年間(一八〇四~一八一七)頃の田代の農地や人口は「田畑高一二二石九斗六升・畝数七町一反五歩半・家数十七軒、人数七十八人、牛馬各五疋」とあります。

二、田代の現状

 田代は、戸数二十一戸、人口一〇三人、田七・六八ha、内圃場整備がされていない田が一ha。畑約一ha、山林六十六・一haです。前述のように、耕地が狭いことや減反もあることから、営農には種々配慮され、水田のほか、胡瓜○・九六a(六戸)梨園六・一ha(五戸)が作られています。(平成四年現在)

三、社寺と石造物

(1)三島神社

 字大平にあります。以前は下ノ原の道路山際にありましたが、明治四十年板木の田嶋神社に合祀され、その後境内はそのままでしたが、現在は市道が通り跡形もありません。現在大平神社入口の鳥居は、下ノ原にあった鳥居を移設されたものだそうで、前後して社殿が建てられたものと思われます。

 下ノ原にあった頃は、毎年春秋に大祭があり、特に春の大祭には宮相撲や芝居、浪曲等も催され、出店もたち、近郷からの参拝者も多く賑わっていたそうです。今は各戸一名が参拝しています。

 現在の三島神社には、神様と観音様・地蔵様が祀られ、神仏合祀の特殊な神社です。以前この敷地には、観音様が祀られており、この適地に神社が移転されたからだと推察されます。祭日は一月六日の年中願と、七月上旬、五穀豊穣と身体安全の茅の輪くぐりが行われる夏祈祷があります。

(2)三島神社の大杉

 境内にあった大杉は、波多津町で唯一の県登録名古木で、樹齢三〇〇年と登録されていましたが、昭和六十二年九月の台風で倒れてしまいました。前面の石垣より一・五m程奥に埋まっているそうですが、切株をみると、樹齢五〇〇年以上とも推定されます。今は代わりに植えられた幼木が育っています。

(3)弘治六地蔵

 三島神社にあるこの地蔵様(大小各一体)は、市内で二番目に古いものとして折紙がつけられていましたが、昭和四十六年、小さい方が盗難にあい一体となりました。後に村中で一体が再建されています。

 弘治年間(一五五五~五七)頃から六地蔵を祀る風習が盛んになったそうで、残った一体も、その頃建立されたものと思われますが、無銘で明らかではありません。祭りは、八月二十四日、青年会主催で飾り付け、酒肴を用意して参詣者をもてなしています。

(4)権現様

 田代下組の中程に権現様の森があります。古老の話では、岸岳城主波多三河守の没落により、その家臣長坂淡路の守が、郎党十四人を引連れてこの地に来たり、自害して相果てたと伝えられています。現在は五輪塔一基、数ヶ所に石塚があります。この墓地に、大正五年、管理者福野善四郎により、正真権現と銘うって石碑が建立され、命日には下組の人達が酒肴をもって詣っていましたが、現在は福野定治が管理し、花を手向けています。

(5)五輪塔群

 字中ノ原の中央部一帯は、元田代村の共有墓地で、多くの五輪塔や石塔がありましたが、開田とともに二基だけが残され、多くは近くの山麓に積立ててあります。言い伝えによると、「おせん」「おまん」という姉妹で、移転される時、「私達はここから動きたくないので、ここで祀って下さい」と言った由、この仏様は霊験あらたかで、お詣りすると願が叶えられると聞きます。谷崎清が管理しています。

(6)柳ノ内の大溜池

 元禄((一六八八~)年間(一七〇三))の築造といわれ、水面は約一・二五ha、貯水量は五万t、田代の田をうるおし、住民を生かしてくれた命の源です。だから、この堤にまつわるいろいろな伝説が語られています。

 ((一八)延年間(六〇))、唐津藩水奉公によって、横樋の取替工事があり、田代中の老若男女に出夫が命ぜられました。その工事中、誰かが「ここの横樋はイチイ(かし)で作られている」と言い出しました。ところが、役人は「一六〇年も前のことがわかるものか」と信用しなかったが、掘り出してみると、確かにイチイ樫だったそうで、役人は衆知の確かさと、大溜の重要さを改めて認識したということです。

(7)溜池地蔵と祈祷師乗園

 前述した溜池の上、道路脇の桜の根方に、一基の地蔵様があります。「大日秀水童男、一太郎七歳、天明((一七)七年(八七))未三月二十七日、乗園」と刻銘されています。

 ことは今から二〇〇年程前のこと、当時一太郎という七歳の男の子が、過ってこの溜池に落ちて亡くなりました。乗園は懇に弔ってやりました。ところが、まもなく一太郎が乗園の枕元にたち、「今後、この池に溺れて死ぬ人がないように、仏となって守るから、墓を建てて祀ってください」と告げたので、乗園はこの地蔵を建てて祀ったという事です。こうしたことで、現在まで、この池での事故はありません。

 昭和六十二年は、一太郎の二〇〇年祭にあたりましたので、四月二十二日法要が行われました。

 また一方では、この池を通りかかった男の子が、池のカッパと相撲をとったところ、家に帰って急死したので、このようなことがないよう守本尊を建てたという言い伝えもあります。

 この乗園という人は、どこから来られたのか、その消息はよくわかりません。田代に住みつき、祈祷師をしていたと聞きます。その昔、天明の頃、連日の早天に襲われ飢饉が迫り、村人はほどこす術もなく、乗園様に祈祷をお願いしました。乗園様が一心不乱に祈願されたところ、俄に曇り大雨が降ったという伝説があります。戦後もある時期、村の婦人会が雨乞いをした乗園山のお堂の跡には、墓碑も残り、筆跡も残っていることから、乗園様の存在は、まぎれもない事実と思われます。