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第十章 集落史(板木)


第十章 集落史(板木)
(2021年11月12日更新)

 板木

一、集落の沿革

 板木村は、長い間、松浦党岸嶽城主波多三河守の支配下にあり、板木・法行城主の知行でしたが、波多氏没落後は唐津藩領、一時幕府領、慶安二年以降再び唐津藩領となり、板木組十か村の元村として大庄屋がおかれていました。史書に、初代藩主寺沢志摩守時代、俸禄三〇〇石の古郷孫兵衛の食禄であった、ともあります。くだって文化年間頃の田畑高一八一石余、古高一二九石余、畝数十一町余、年貢率五割七厘、家数二十二戸、人数一一四人、牛三頭、馬六頭の記録もあり、年貢米は行合野土場まで陸送され、波多川を川下げされていたようです。(第四章参照)

二、法行城

 法行城は、健保元年(一二一三)、岸嶽城の支城として波多氏の家臣古河越前守保により築かれ、(松浦古事記には、年代不詳、古家周防守築くとあり)初代城主に久家越前守(古河越前守改め)、以後十七代(十二代とも)続き、最後の城主久家玄蕃允のとき、主君波多氏の没落により廃城となりました。

 頂上の城跡は、約七十坪程で、東方に岸岳がはっきり見え、牛神様と皿井大権現の石塔が建っており、五月と十月、牛神様祭りが昭和の中頃まで行われていました。この城跡も、後述するように、今では立派に整備されております。

三、板木組大庄屋と庄屋跡

 唐津藩政の末端組織で、村々を組合わせて組を設け惣庄屋一名をおき、その支配下の村ごとに脇庄屋がおかれていましたが、大久保加賀守の頃から、大庄屋、小庄屋と呼ぶようになりました。(第四章参照)

 板木組の区域は、板木、津留、主屋、中山、田代、井野尾、木場、筒井、湯ノ浦、杉ノ浦の村々で、板木に大庄屋がおかれ組を支配しました。

 「北方大庄屋簿」には、「先祖古河光之助、当時彦吉、先祖波多氏家臣古河越前保なり。板木法行城に罷在、其の子孫蕃充計迄、法行城主十二代罷在し処、豊臣秀吉公名護屋に御在建の節、((一)()三年(九四))波多家藩者の砌断絶仕り、板木村に居住しておったが、玄蕃允の((助)助衛門(右衛門か))

と申す者が、唐津藩主寺沢志摩守の代に、板木村の庄屋を仰せつけられ、弟伊左衛門戌は井野尾村庄屋に、弟権兵衛は筒井村の庄屋を任せられたが、病身のため退役してその村に住んでおりましたる処、その子孫彦吉の父重左衛門が、天明((一七)二年(八二))黒川の清水村の庄屋に任ぜられ、文化((一八)元年(〇四))そのあとを仰せ付けられましたが、文政((一八)二年(一九))浜野藩村庄屋に任ぜられました」とあります。

 大庄屋が何代続いたか、その名も詳しくはわかりませんが、法行城主の子孫が多く任用されたようです。最後の庄屋尼村権治郎は、大政奉還後波多津役場の収入役・助役を勤めています。

 その庄屋跡地凡そ六〇〇坪は、当時板木代表者古舘四郎左衛門の所有となり、明治末、長男理三郎に譲渡、昭和三十年頃前田虎夫の所有となり、樹園地として耕作されていましたが、昭和五十八年坂本篤郎に移り整備(後述)されました。

四、坂本篤郎と城跡並びに周辺の整備

 坂本篤郎は、大阪豊中市に居住、医業を営み、法行城主の末孫にあたる人で敬神崇祖の念厚く、昭和五十四年頃、法行城跡他旧跡の整備を板木区に申し出られました。区としては快くこの申出を受入れ、以降、平成四年頃までに、巨額の私財を投じて、次にあげる多くの整備が施され現在に至っております。

(1)法行城跡の整備

 昭和五十四年、頂上の城跡へ通じる参道の改修と、頂上に城跡の碑が建立されました。

     法行城 建碑の辞

 嵯我天皇の皇子源融の玄孫渡辺綱、京を下り居を松浦に定めしより、子孫代々、西肥前の城主或は、京の御所の守護職を賜りたり。加治屋城主松浦源大夫判官久の弟渡辺源大夫博は、白河院北面龍口の惣官たりしが、其の孫渡辺長七唱は源三位頼政に従いし為、頼政公自刃後、下総古河に致りて閑居、其の子渡辺源大判は族たる肥前城主松浦に還向、禄を奉じ波多郷に上居して古河越前守と号せり、法行城はその五代孫古河越前守保が元寇の役後、本城たる岸岳城の出城として此処板木の庄に築城せるものにて、初代城主保は是より姓を久家越前の守と改めたり。

 以降代々城主久家玄蕃允計は、主家波多三河守親が秀吉公の勘気を蒙りしに連り、文禄三年二月竟に城を棄て野に下り久家七右衛門督と改名せり。その子久家助右衛門明は、慶長四年、唐津城主寺沢志摩守の命に依り板木村庄屋、その子政は山口村の庄屋に任ぜられ、山口と改姓、爾後八代に亘り椿(つばき)原村庄屋家督を承け、寛政九年山口恵門兵衛の曾孫松浦与五郎は坂本と改姓、その子坂本佐太郎は官に就き守護職として歴せり。明治十七年、再びこの地をはなれたれども猶族戚の多くは故地を守り継ぎて今日に栄たり。

 茲に先祖代々の霊を供養して祖業を顕彰し当地の繁栄を願いて謹みて城主の碑を建立するものなり。

    昭和五十四年          坂本篤郎

(2)城主並びに末孫霊園の造成

 歴代城主及び末孫の墓地が、法行山中腹、薬師堂の西方斜面にありました。雑木林の中で、それまでは昔の立派な墓があるとは聞いておりましたが、その由来は知りませんでした。坂本氏により明らかになり、しかも多額の費用をかけて霊園が造成されました。霊園の上段・中段は城主又は浄光寺関係の墓地、下段は元禄の頃の墓、並びに五輪塔群に整備されています。

(3)薬師如来堂の再建

中腹の薬師堂は、いつ建てられたのか明らかではありませんが、建坪十四坪、木造茅葺のお籠堂には、薬師如来・千手観世音が祀ってあります。昔から病気を直す大師様と知られ、お祭り以外の時でも参拝者があり、夜通し祈願される人もあったそうです。大分老朽化しておりましたが、平成二年新築され、毎年七月二十日、前記霊園の供養がここで行われるようになりました。

(4)庄屋跡地の整備

先にあげた凡そ六〇〇坪の庄屋跡地の所有が、昭和五十八年坂本氏に移り、昔の庄屋屋敷を思わせるように整備されました。尚、屋敷の半分程は、区の集落センター敷地として、運動広場兼ゲートボール場ができ、休憩舎までも造られました。

(5)田嶋神社の拝殿・鳥居等の改築

拝殿は、台風のため少し傾きかけており、氏子で改築を検討中でした。そうした折、氏の積極的な貢献があり、氏子は一部の負担で見事な拝殿が改築されました。また、台風で倒壊していた第二の鳥居も建立され、更に参拝者の安全を願って、石段の中央に手すりが上段から下段まで設置されました。

こうした数多くの事業が施され、法行城跡一帯は見違えるようになりました。この景観は、平成十年佐賀新聞社主催の「新佐賀百景」に応募し上位入選しました。

五、板木村塾・大平小学校跡

庄屋跡を中山方面に向かって登った小峠の頂上右手に、小高い丘があります。ここは明治維新前後、板木村塾(寺小屋)が建てられていたそうで、その跡に明治十九年大平尋常小学校が創設されました。その後、校名は何度か改称されましたが、昭和三十一年四月、筒井分教場と合併して筒井に波多津東小学校が新築されました。こうして、長年、地区の人から親しまれてきた大平小学校も七十年の幕を閉じ廃校となりました。

六、椎茸栽培の足跡

(1)当時の状況

終戦後十数年を経過した頃から、農業経営は徐々に苦しくなってきました。各地の農家は、農用地開発や樹園地造成で経営の多角化が図られましたが、当板木地区は、岩山と谷間が多く、農道作りも困難な程で、その上停滞気流のため樹園地には不適とされて、他地区のような開発はできないのが実状です。山一つ越えれば、伊万里湾を望む温暖な地にあり乍ら、地形の上からいずれの作物も満足にいかず、特産物もありません。加えて雨期には毎年のように洪水に悩まされ、耕地は荒らされる等被害も多く、その上一戸当りの耕地面積も少ないという悪条件の中で、農家の経済は苦境に立たされ、納税も滞る程でした。

当時、村の戸数は二十二戸ありましたが、半数以上の家が世帯主を始め、大切な後継者までもが、遠くは東京、近くは唐津炭坑等に出稼ぎに出る程で、村は危機寸前というところでした。

(2)出稼ぎ防止対策

昭和四十四年当時の区長前田虎夫の発案により、農協・農林事務所・市役所等から関係者を招き、「板木の振興と出稼ぎ防止対策」について、地形の診断や意見交換がもたれました。その結果、むらには雑木林が多いことから、椎の木を原木として椎茸栽培がよかろうということになり、先ず希望者十七名で栽培に取り組むことになりました。

早速関係機関や熊本のキノコセンターの指導を受けたり、現地での植菌伏込みの講習を受けました。しかし、この仕事で家計の樹立が出来るのかと、不安でしたが、普通は植菌後二年半程でキノコが発生するそうですが、一年半程で発生し始め、組合員の喜びは筆舌に表せない程でした。

(3)夢と希望

東京方面の出稼ぎ者も徐々に呼びもどし、本格的な栽培に取りかかりました。しかし、資金はなく、農協に相談して、やっと一戸当り五万円の近代化資金を借用することができ、町内外から収量の多いクヌギやナラの原木を導入しました。また、当初は生椎茸で唐津や伊万里の青果市場に出荷しておりましたが、天候不順の折支障を来たし、価格も安くなりますので、事業資金二百五十万円(補助金六〇%)を借用し、乾燥機B型二台その他備品一式を備える共同乾燥場(建物十八坪)を設置しました。

こうして、生椎茸は今まで通りに出荷、乾燥椎茸は久留米の兼貞物産に出荷する等、販路・価格も順調に伸び、組合員も二十名に増え、税の滞納もなくなり、農協の定期積金も板木は町内で上位に位置する程になりました。これも関係機関の指導、農協のPR、組合員の苦労と努力の賜であると思っております。

その後、更に生産規模の拡大で共同乾燥場では処理できなくなり、各戸に乾燥機一~二台を設置することになりました。初めは一台三十三万円程の乾燥機が導入されましたが、約七年で老朽化し、新しく新型サトー式(一台七十~百万円)の乾燥機が、農業後継者資金(無利子・五ヶ年計画払込)を借入れ導入されています。

(4)乾燥椎茸の価格不況

昭和五十七年頃から韓国・中国から、安い乾燥椎茸が輸入され出廻るようになり、価格は以前の半額程に下がりました。その頃から、大阪の全農市場に出荷しておりますが、価格は低迷したままです。ただ、生椎茸は価格の低迷はあるものの、消費は伸びるような気がします。今後は品種の改良と栽培技術・乾燥技術の向上により、品質の向上を図ることが課題と思われます。

(5)原木の確保

昭和五十七年頃より年次計画をたて、原木確保のためクヌギを植付けています。現在、組合員のクヌギ植付、合計約十町歩、共同事業として国有林を借用(六十年間の契約)し、山代地区に三町三反歩植付けられています。

(6)椎茸の販売実績