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第十章 集落史(津留主屋)


第十章 集落史(津留主屋)
(2021年11月12日更新)

 津留・主屋

一、津留・主屋の行政区

当区は、波多津の東南端に位置し、中央に流れる行合野川を境に津留と主屋の集落があります。明治二十二年町村制施行以前は、津留村、主屋村と各々一村をなしていました。施行後も、大岳村(現波多津町)の大字津留、大字主屋として行政区は別々でしたが、昭和十五年頃から合併して「津留主屋」と呼ぶようになり、近年は「津主」と呼んでいます。

津留の地名について、日本地名辞典には「行合野川が狭隘な谷を形成し、地名もこの地形によるもの」と記されており、曲折した川、狭い谷が多く、戸数二十六戸、人口一二〇人、水田十五町余、畑三反余の小さな集落です。また、津主に電燈が取り付けられたのは、大正八年のことと聞いております。

二、交通の難所カオジ谷

カオジ谷には、津留と板木区の小字があり、概ね行合野川を境に南が津留の川氏、北側が板木区の川宇治となっており、どちらも「カオジ」と呼んでいます。県道新田-徳須恵線の津留から行合野に出るまでの凡そ一kmで、行合野川に沿って曲りくねった県道を、奇岩巨岩が今にも崩れ落ちそうに覆っています。その一つ、津留の出口に近い左手に、道を塞ぐように立つ岩を「鯖くされ岩」と呼び、昔、波多津の浜から、徳須恵や岸岳に魚の商いに行っていた漁師の嫁が、崩れ落ちそうな巨岩に恐れて、通りぬけることが出来ず、とうとう魚を腐らせてしまったことから、この名がついたという話です。

この岩も、平成二年頃、市丸建設によって一部取り除かれ、今では安全が確保されています。

また、大正十一年、カオジ谷の中程にある板木橋を一〇〇m程下った左手(恵木の土地) に山崩れが起り、大きな岩が川と道路を塞いで通行できなくなったそうです。ちょうど、津留の市丸力造と主屋の市丸信右衛門の現役入隊の日で、止むを得ず板木から恵木を通り岸岳駅まで見送りに行ったという話も聞きます。

三、昭和二十八年の大水害

昭和二十八年六月二十八日、波多津地区は集中豪雨にみまわれました。当地区は、行合野川と中山川の合流地点で水量が増し、加えて津留橋の県道が八m程切断、片平山麓が、高さ三十m、幅十五m余にわたって山崩れを起し、行合野川を塞いだため、水田六町歩が土砂で埋没、家屋六戸が床上・床下浸水の被害を受けました。水田の被害は東谷全地区に及び、水田の表土や苗代が流失する被害を受けています。

田植直前のことで、水田の復旧と苗の確保には心痛されたようです。幸い農協の斡旋により、長崎県の川棚方面に二、三日間行き、救援苗を貰ってきて、被害面積に応じて分配しました。この年は、やっと自家保有米だけを植付ける人もいたようです。

四、圃場整備と営農

当地区は、昭和五十四年から圃場整備事業が始まり、約八町四反歩余の整備が、翌五十五年に終りました。お陰で水利も近代的なポンプ揚水となり、全水田の地下にパイプが配管され、用水当番が一日三、四回水田を見まわって、必要に応じて蛇口を開閉して水の調節をしてくれますので、大変楽になりました。

また、大型の農機具も利用できるようになり、都合よくなりました。

しかし、打ち続く減反政策は痛く、現在では二七・八%にも達しています。そのため減反した田地を利用した施設野菜のキュウリ栽培(五戸、九反歩)のほか、養鶏(三戸、年間三十万羽出荷)、畜産(四戸、内肥育牛三戸、育成牛一戸、合計三〇〇頭)、玉ねぎ栽培(四戸、六反余)等が営まれています。         (平成四年現在)

五、主な事業

・昭和五十九年農村地域構造改善事業として、集落センターが完成、工費一二〇六万三〇〇〇円、内国庫補助六〇三万一五〇〇円、地元負担五十%

・昭和六十~六十一年、主屋林道、延長一二七〇m、工費二四七七万円、地元負担二四七万円余、

・昭和六十二~六十三年、津留急傾斜改良工事、工費六四三九万円余、地元負担五十%

等が施行されました。

六、神社・石造物等

(1)津留の神寄場

津留橋近くの堤防に、コンクリート石垣を積み、仏体が寄せられています。この地は、以前、お籠堂がありましたが、昭和十三年頃県道が新設されたため、この付近が整地されました。寄せられた石造物は、天照皇太神宮、観世音菩薩(十手観音、四国八十八ヶ所三十番) 修業大師、不動明王、仏像四体のほか、五輪塔十八基、燈籠一対(文((一八)五年(〇八))銘入)等で、いつも新鮮な花が手向けられています。

(2)大谷の十六羅漢

下大谷の溜池の上、雑木林の中の大きな岩の下に、十六体の羅漢が一列に並んでいます。その内の一体には、「為秋月知信士、菩提建立、施主五左衛門」の記銘があり、他に「文化元年((一八)甲子(〇四))八月二十五日」と記銘された一体もあります。十三体の形は大体同じですが、手持の品は違っています。

(3)五穀神社

天保五年(一八三四)甲午九月吉祥日創建、津留主屋村中の当社は、津留の正面、片平山の山頂にあり、村中で豊作祈願のお籠り等もあっていたそうですが、明治四十年、板木の田嶋神社に合祀され、今では年一回、秋のお祭りが村中で行われています。

尚、参道の中程に、鳥居が半分埋って建っており、嘉永二年(一八四九)九月建立の銘がみられます。

(4)主屋の田嶋神社

字岩屋にあった旧田嶋神社(創建年代不詳)は、主屋中の守護神として氏子に崇敬されていたそうですが、明治四十年、板木の田嶋神社に合祀されました。

その後、大正十一年九月、市丸建設の先代市丸広太郎が、自己所有の現在地字前田に本体を再建して、工事の安全、地域住民の守護神としました。更に平成二年頃から、現市丸建設社長市丸徳一が更に所有地を造成し、私財を投じて境内の整備拡充を図り、鳥居二基、唐獅子一対、燈籠一対、九重の塔等が建てられております。尚、拝殿の建築も検討中で、将来は景観も整い、住民守護の神として、一層崇敬される神社となりましょう。

祭神は市杵島姫命、湯津姫命、田心姫命、大山祇命