本文にジャンプします
メニューにジャンプします

第十章 集落史(煤屋)


第十章 集落史(煤屋)
(2021年11月29日更新)

煤屋

一、集落の歴史

煤屋は波多津の南西部に位置し、丘陵と新田(干拓)が主で、小字には浦や津、潟、灰、江のついた地名が多く、住宅は丘、谷間、山の下、山の中腹と点在しています。

江戸時代以前の煤屋村は、岸岳城主波多氏の領内、黒川姥城の支配に属していましたが、波多氏没落後は唐津藩領となり、慶安元年(一六四八)幕府領、同二年から従前の唐津藩領となり、黒川組に属していました。明治維新後も一村として位置づけられていましたが、明治二十二年町村制の施行により、大岳村(現波多津町)の大字となり、冠称はかわりましたが、現在に至っております。

因みに、文化年間(一八〇四~一八一七)頃の田畑高二四三石余、畝数二十五町余、年貢率五割九分七厘から一割、家数二十九戸、人口一四五人、馬二十、牛十一の記録があります。

二、庄屋跡と黒男大明神宮

(1)庄屋屋敷跡と拝頭道・高札場

字煤屋に、慶応三年まで庄屋をつとめた佐伯熊作(慶応三卯三月十一日卒、功雲自徳居士・ 墓は字煤屋に在)の屋敷跡近くの道路を拝頭道と呼び、庄屋が村人に知らせる掲示板(高札) を立てた所として、高札場(旧道三又路土橋の上)の地名が残っていますが、現在は市道の敷地になり形跡はありません。

(2)黒男大明神宮

大明神宮がいつ創建されたか、その由来も確かなことはわかりません。

「唐津領惣寄高」の中には、「氏神 九郎大明神 掛り 福田村 坂口守人」とあり、言い伝えでは、「往時、畠津の漁夫が、煤屋崎竹生島近くで操業中、漂流していた御神体(御神符か)が、漁網にかかったので大事に拾いあげ、煤屋海岸古神山の一角に小さな祠を建てて祀ったのが起源で、当時は浜の漁夫が、御神酒・御供飯・掛の魚を供えて参詣されていた」ということです。(田村マヨ・吉田定兵衛の話)

詳細は知ることができませんが、社の棟木銘や鳥居銘によって、いくつかのことが知られます。

(1)棟木銘 黒男大明神宮祠建立 第百拾六代桃園天皇宝暦三((一七)(五三))酉六月吉日

社人福田村 坂口守人 庄屋(不詳)

名頭 格右衛門 惣代 亀蔵

(此の時 古神山は島で参詣に不便な為、現在地小島へ移す)

(2)鳥居銘 黒尾大明神宮鳥居建立 第百弐拾代仁孝天皇 天保((一八)拾参(四二))年壬寅歳正月吉辰経営

願主 氏子中 庄屋 佐伯熊作 名頭 善九郎

惣代 東蔵 浅吉

(3)棟木銘 黒尾大明神宮再建  第百弐拾弐代明治天皇 明治拾弐年巳卯年九月榖旦

社人塩屋村 牧野 傳 当番 岸本広右衛門 田中和助

大工 内野村 脇山善四郎 悴 与助

の記銘がみられます。

以後 明治四十一年、畑津の田嶋神社に合祀されましたが、明治四十二年八月、トントン坂に移転(宮司田村力太郎)、更に昭和二十三年八月に現在地に移転されております。尚、平成二年七月、拝殿が建替えられました。祭神は蘆原醜男(アシハラシコオ)命(大国主命)、大巳(オオナ)(ムチノ)(カミ)(ウツシ)(クニ)(タマノ)(カミ)、ほか六神が祀られています。        (田中繁の記録による)

三、馬蛤潟(煤屋)力武新田の干拓(第八章産業の項参照)

四、波多津町馬蛤潟地区内湛水防除事業

昭和四十二年から四十六年にかけて進められた潮遊びの干拓は、農地十二ha余、その他三ha余の土地を生みましたが、思いのほか自然は厳しいものでした。

昭和四十九年七月十八日付西日本新聞は、「伊万里市波多津町で排水施設工事」の見出しで、「波多津町馬蛤潟地区が、五十mmの降雨があると、約七十二haの農地に水がたまるなど被害が出る為、このほどから、排水ポンプ施設造に着工した。干拓十二・二haを四十五年に造成以来、被害が繰返していた。このため、伊万里湾に注ぐ樋門のわきに、鉄骨平屋建一五四平方メートルのポンプ小屋を建設し、千mm一一五馬力、七〇〇mm七十馬力の排水ポンプを、それぞ れ一基ずつ据付ける。ポンプは、千mmが一秒間に二t、七〇〇mmが同一tの排水能力、完成は五十年度で、工費は約一億二千万円、ポンプは重油を燃料としており、どんな暴風雨でも威力を発揮する」と報じています。

この施設は、昭和四十六年申請され、五十一年三月竣工、水害、塩害から農地を守っています。

五、波黒炭坑跡

昭和七年五月、ニタン谷坑内(藩政時代に採炭した炭坑口の跡)の水をくみ出し、坑内を調査中に、皆治ヶ浦付近の炭層を確認、飯塚市の森本要造(鉱業権者)が、煤屋田中三郎より皆治ヶ浦新田を借受け、坑内夫数人を雇い、住宅を建て採掘準備にかかりました。

昭和九年、黒川村福田に事務所、貯炭場、船積桟橋、ボイラー等諸施設を完了、波多津村と黒川村に施設ができたので波黒炭坑と称されました。皆治ヶ浦を本坑として、同時に、福田の大久保に坑口を開き、煤屋字穴ヶ坂に向かって掘進を始め、最盛期は昭和十年より十 四年頃で一日の出炭量四十~五十t、福田字松葉の県道を横切り、福田新田に動巻で下し、それからは海岸洗炭場まで馬によって運搬されていました。

昭和十四年頃の坑夫住宅は、五戸続きの長屋で、皆治ヶ浦に四棟、福田字道切に四棟、大久保に二棟の合計十棟が建ち、人口二百数十人、坑内夫百五十人、坑外夫四十人程でした。

六、まつり

(1)「百々手」「イトマゲ」「ウチムキャ」については、第七章参照

(2)夏祈祷  六月、無病息災、五穀豊穰を祈願する。福田境と馬蛤潟の境に〆縄を張り立札を立てます。立札には、「疫病齋神勢強健諸災消除大字中鎮安守護」と書き、〆縄の(コ)は、「(ココ)()(トウ)(サン)」と張ります。

(3)龍神宮祭 十二月二十一日、灰ノ浦新田が豊作であったことに感謝して、龍神宮田約五畝歩でできた初穂をたいて龍神宮にお供えする。賄役は家順七名、毎年交代で龍神田を耕作します。

(4)その他  筑前愛宕神社詣は四名一組、伊勢講、薬師様、秋願成就、山ノ神祭り、他。