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第十章 集落史(木場)


第十章 集落史(木場)
(2021年11月12日更新)

第十章 集落史

 木場

一、木場城

「松浦拾風土記」に、次のような記述があります。

「永仁三年(一二九五)九州探題北条兼時の目代として、松浦播磨守を呼出し、筑前國隈崎の城に居を置たり。其後代々熊崎の城主たりし。大友宗麟の時に當りて、熊崎駿河守此所を退き、松浦郡木場村に館を築き住居せり。其隈崎を退きし固意を尋るに、宗麟専ら邪蘇宗を信じて神社佛閣を破却し、我意を振う事傍若無人なり。駿河守偖思ひけるは、今此宗麟に屬せし事、天神地祇の御罰こそを畏しけれ、如何にもして此隈崎を退かんと思案を廻らせし折から、宗麟隣國と戦ひ出來し、軍勢を催足しけるに、駿河守虚病にして出でざりければ、宗麟怒りて軍陣の首途出として、隈崎の城に押寄せんと其支度をなしける。駿河守は書翰を認めて罪なき由をいひやり、城を明けて岸獄に来れり。其後岸獄の城より、木場・中浦の内を分けて居城を築かせ、旗下として差置きぬ。それより隈崎駿河守照連續して住居せり。(中略)

城野尾城と云ふに、隈崎豊後守源信有り。家老は西川半之丞。」

この城も、主家波多氏の沒落により廃され、以後唐津藩領となりました。「松浦記集成」には、最初の城主とみられる熊(隈)崎照の墓が、「木場村にあり、此所を知行す」(松浦拾風土記には中通村にあり)とあります。

二、山林と松岡泰作翁頌徳碑

三つの枝村をかかえた木場村は、広い面積を占め、区有の山林原野二五〇町歩を所有しています。この山林原野は、当区の次男・三男が分家した時、区有の山林原野を分与し、開墾して農業を営み居住するよう、他町村への流出を防ぐための資産として、個人分配はしないとの字規約が、大正の末頃でき厳守されてきました。このため植林にも努力が払われ、逐次一〇〇町歩の植林もできました。

こうしたお陰で、昭和中頃の共有電話設置、公民館建設、放送施設等大事業の経費も、成長した木材によってまかなうことができました。

また 昭和八年頃、字長坂の原野三十町歩余を整地して牧場を造成し、牛馬を飼育しましたが、戦後、開拓団に分譲され現在に至っています。

この区有林野も、昭和四十四年、入会林野整備法により、共有地七十五町六反歩を、区戸数六十三戸で一尸につき一町二反ずつ分配、各戸が植林して現在に至っております。

松岡泰作翁頌徳碑

先に述べた区有林野の運用や植林事業の推進に、大きく貢献されたのが松岡翁です。区ではその功績に対し頌徳碑が建てられました。碑文は

翁は明治十五年八月十二日 哲之助氏の次男として出生、若くして区長 村会議員を歴任され、木場林野管理組合理事長として、区民繁栄の基礎作りのために多年にわたり百町歩の植林目標を達成すると共に、共有地の分散防止を指導督励し、区民もその恵に対して今日に至る。昭和四十四年入会林野整備法の施行に依り、生産森林組合として七十五町六反歩を六十三戸で配分、更に上場共有地三十町歩を開墾して、養蚕 葉煙草栽培団地として将来に備えられた。これひとえに翁の功績に帰するところであり、茲に 深くその遺徳を敬慕し、今後も共有地の他部落への譲渡を永久に禁ずる事を申し合せ、この碑を建立する

昭和四十九年五月吉日 木場村中

(碑文は長谷川宝助による)

三、蔵王大権現

大権現を、四国の讃岐から木場村へお迎えしたのは、明治五年八月五日のことでした。

はじめ、唐津市梨川内の園田利七が、木場に世話人をたてて、長谷川丈右衛門・前川友太郎外数名の者が選ばれました。選ばれた者は出発に先立って、七日間一切の生活を精進潔斎した後、四国へ渡り神霊をお迎えして帰ったということです。お迎えした神霊は、木場村を見下す清水の岩山に祀られております。お迎えの時着用した白衣や幟等は、今も前川元治宅に保存されています。

四、木場村 上記

田畑高 四一七石六斗六升三合

畝数  二五町八反七畝十歩

戸数  三十六戸(一戸当四、五人)

人数  一五二(男八十五、女六十七)

氏神  田嶋大明神 祭礼九月十八日

若武玉尊 天正十八年二月建立

熊野十二社権現 天正十年二月、隈崎庄建立

開拓

一、開拓のはじまり

開拓のはじまりは、戦後の緊急開拓事業からです。日本は第二次世界大戦において全面降服をしたので、復員軍人と外国に出ていた同胞が、世界各地から七百万人も帰国するというのです。

そのために政府としては、莫大な食料を準備しなければなりません。しかも引き続きその供給(生産)を継続しなくてはならないのです。また、働く仕事の世話をしなくてはなりません。これは帰ってくる人たちばかりでなく、今まで国内に居て、軍需産業等に従事していた人たちも、たくさんいたからです。

この時、政府の打ち出した計画は、全国の遊休地や山林原野のうち、開墾できる土地を緊急に開墾して、そこに住まわせ、食糧生産に従事させるということでした。そこで、「自作 農創設特別措置法」が制定され、食糧増産は当時、国の最高命題となりました。

わが村、木場に開拓団が入植されたのは昭和二十一年二月十八日でした。開拓用地としては、木場集落が戦前に共同牧場としていた一帯が、未利用のまま残っていた三十八町と、これに隣接した波多津村有林七町、計四十五町が地権者の了解のもとに既に決定していました。

当時、入植された二十一名は、前途の多難であることを予測しながらも応募された方々で、その気概には敬服のほかありません。

当日(二月十八日)、開墾地で鍬入れ式を行い、翌日から早速開墾作業に入りました。後日、当時のもようを、富野加志男・松下常夫の両氏は、「入植者は、木場青年倶楽部に合宿、雨の日以外は、厳寒吹きさらしの上場に、鍬一丁、鎌一丁で開墾に立ち向った。開墾と併行して、年長組五名は家屋班として、住宅の建築に取りかかった。当分は雨露を凌ぐだけでもよい、早く家族を呼び同居できるようにと頑張ったが、両方とも重労働で馴れない仕事のため、なかなか能率があがらず、見るに見かねた波多津振農会や村の青年団の人たちが、何日間も労力奉仕をしていただき感謝している」と語っています。

こうして、二十二年春には、家族を呼ぶことができ、夏までには数町歩の開墾もでき、夏作に甘藷や南瓜を植えることができました。

しかし、苦難との闘いは、これで終わったわけではありません。前述の両氏は続けて、

「二十二年には家族を呼びよせることができた。しかし、生活はいよいよ厳しく、時には床藷・つわ・よもぎも食べたし、塩水を汲みに当番で湯の浦にも通った。米を買うために、着物が一枚ずつ減っていった。過重労働と栄養失調のため倒れた人もあり(後略)」と当時をふりかえっています。

二、開拓四十七年間の足跡

終戦の翌年に希望してこの地に入植し、今日までの四十七年間を、ともかくも生かしていただいた自然の恵みと、開拓内外の人々の情をしみじみと感じます。今日までの歩みを、少しばかり書き留めてみます。

(1)電気導入

昭和二十三年十二月導入、これは、開拓を囲む大知木・加倉・深谷区が、導入をせきたててくれたお陰で、異例の早さで電気がつきました。

(2)極端な水不足

入植以来、いくつかの井戸を試堀したが水は出ません。ただ一ヶ所水が出たので、共同で使用していますが、涸れることもあり水量不足。未だに解決できません。

(3)公民館の建設

個人の持家が狭く、何事にも盛んに館を利用しています。

昭和二十四年第一次建築、昭和四十一年第二次建築、老朽化のため建替、広さ十五坪

(4)道路新設等 昭和二十二~二十三年 幹線道路五六三m、同支線一八五三m

昭和二十六~二十八年 地区道二六八二m、昭和三十年 

地区外道六二二m

昭和三十九~四十年  開拓改良道三九九三m

昭和四十八年開拓地基盤整備三六〇m

国見山麓広域農道 木場字葉山から開拓-加倉-田代-板木-中山-内野-畑川内-清水-平山-脇田-屋敷野-白野

(5)営農事業

・昭和二十三年 荼の栽培を始めましたが、三十二年段々畑を造成したので廃園

・昭和二十六年 みかん植付、一時六町まで拡張しましたが、一部不適地が出て現在四町に減反

・昭和三十二年 これまで唐鍬による人力開墾で、耕地不均質の不便があったので、全耕地をブルトーザで再開墾

・昭和四十七年から二ヵ年継続で、隣接地木場の団体営農地開発事業が行われたので、開拓から養蚕関係に三名、煙草関係に一名参加させてもらいました。

(6)入植者の消長

・入植     昭和二十一年 二十一人、内波多津出身者十一名

・離農退団   昭和二十九年 五人、三十八年 四人、四十年 一人、四十九年 二人、計十二人 

・現状     現在九名、当時二十歳前後の入植者は健在ですが、高齢化もすすみ、半数程が後継者によって意志が受けつがれ経営されています。(平成四年十月現在)

(7)開拓団を指導した木須清司

氏は、市内木須町出身、終戦により復員後、緊急開拓事業に希望参加し、幹部訓練を受けて、昭和二十一年二月十八日波多津開拓団に団長として、団員二十名と共に入植されました。氏は人格能力共にすぐれた人でした。団長として進んで団員の相談相手となり、団の発展のため日夜努力され、推されて県の開拓連合会の理事に就任されること数回、常に拓連の発展に努力されていました。

また推されて市会議員に当選されるや、市議会での活動も抜群で、当選三回で副議長に就任され、往くところ可ならざるなき大物と評価され、信頼されていましたが、交通事故により急逝されました。惜しみても余りある痛恨な事故でした。昭和四十八年、齢六十一才、まだまだこれからの活躍を期待されていました。市議会も県拓連も大痛手でした。家族はもちろん、波多津開拓団、波多津町にとっても惜しい人を失いました。