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第十章 集落史(浦)


第十章 集落史(浦)
(2021年11月29日更新)

 

波多津の浦には、享保(一七一六)年間以前から人が住み、遠浅の入り江を利用して魚介類を採り生活を営んでいたと言われています。

浜新田奥地の埋立を現地から考えてみますと、現波多津中学校校舎及び運動場は、以前はフケ田といって、ひざまでつかるぬかるみでありました。収穫等に大変苦労をしていました。堤防は猿神様付近まで盛土だけで高さが一・五m位の高いものでした。山際に水路を設け、区の干拓事業としては最初でありました。その後、現在の公民館、憩の家付近まで、下三段位の石垣を積み上げ、その上に盛土をした堤防が道路となっていました。この新田の高さが、途中区切られていることから、工事はそれぞれ年代が違っているものと推定されます。この堤防工事も順調に進まなかったため、人柱があったと伝えられています。そこで、堤防の側に地蔵様を祀り犠牲者の霊を慰めたとされています。地蔵様は養寿寺の下にあって、昔からこの地名を「長崎のはな」といっています。山手から長い瀬が出ていて、これが堤防となりました。

長崎のはなには直径一・五m位、樹齢三〇〇年ほどの大きな松がありました。以前の道路ができる前は堤防が道でありました。現在の地蔵様の位置は移転しています。

唐津藩といって残っているのは浦潟の北端の高所に出て旧軍人墓地の前を通り、お大師様の下を通って平串の境の堀り切りの上に出る幅一m位の狭い道でありました。筑前参りに行く人を、この地まで出て見送っていました。その当時までは、僻地であったため他町村との交流はなかったと思われます。

浜新田ができる少し前までは、中ノ瀬を中心として赤崎の方に干拓がなされました。しかし、度重なる豪雨のために堤防が流されました。現在その面影が少し残っています。現農協前の杉本、酒谷、大塚三家の裏に通称中瀬といって、二畝位の遊水池があり、潮止め工事がなされました。赤崎の方はフケ田でもありました。

稲葉家の古い記録をみますと、天保六年稲葉氏は辻(むら)(おさ)を拝命され、本辻の地に居を構えられました。その頃、浜新田は干拓工事がなされました。その当時稲葉氏の所有田は三町三反とされています。

小笠原公当時の地図には文化・文政年間、畑津浦 舟泊 至十六里と記してあり、年貢の輸送の船場に利用されていました。また、漁業の基地として唐津藩の主要な位置を占めていたと思われます。

現在、土井町の中央の通りは、昔は土手でありました。その土手は赤崎より中町に通じる道で、塚部末太郎家の裏山をくずして盛土となし、干拓がなされ、これが現在「堤防(デー)」と言われ親しまれています。岡と海の境であり、強い風が吹きあれるときは、「堤防(デー)」を越えて飛沫を上げていました。反面、晴天時にはポカポカとした暖かい日溜りができて子供等の遊びの場所でもありました。

明治六年に入り地籍調査がなされました。三岳村住民稲葉義方が測量に加わりました。明治六年八月二十日命により波多津浦村長、明治十一年十二月十六日戸長となりました。人口五五〇人でありました。明治二十二年大岳村となり、戸数九十戸、人口六〇〇人と記してあります。

明治二十六年、巳旧二月二日、浦中協議会にて浦分総代田中徳治となりました。最初の浦総代でありました。同年旧二月十一日浦中集会にて、相定候儀・決議書定約記録とあります。

第一条 当浦中集会ニテ定メタル事ヲ規約トス。

第二条 此帳簿ニ記入シタルコト違フベカラズ。

第三条 当規約ヲ違反シタル者、有之候時ハ後日集会ニテ罰ヲ行フベシ。

また、

一、田畑或は山野のそだ切りに至るまで、大人・子供を問わず、他人の所有地に入って無断で作物を取る事を得ず。若し後日見当り候得ば、金十銭を払わせ、浦中の儲金になす者也。

薬価受をいたしたい願い事あり

一、明治二十六年旧五月より医師天野房太郎氏満一ヶ年間、当浦中の人民(人数七〇〇人)、戸数一四二戸、此の人数にて、病気やみたる時は、先生の及限り医科の道を別料り下され度

二、一ヶ年の薬価料 一金、百五十円也

時の組長にて四期に別け、総代に提出すること。

明治二十九年 浦中総会

濱新田、海岸の空き地の件

海岸付近の埋立の時は、海岸六尺を浦共有地として差出す事。埋築仕たる地所 二人持の間を家建つれば その先四尺通りを道としてあくる事。浦中より委任を受け、諸般調候事も記す。役員名計九名を選任する。

明治三十三年 波多津村となる。

明治三十八年旧正月二十二日初会。

元畑地にして、新たに植林する者は、四方共、貳間通りさがり植林する事。但し、元山地はお互いに話し合いの上植付ける事。

明治三十七年(一九〇四)

義勇艦隊義捐金 壱百四拾貳円向五ヶ年間

明治三十九年(一九〇六)正月二十八日契約書

親戚・他人を問わず、相互間に於て、俗に狐つけ、或いはその類と傾し是等は、吾人の大いに忌むべきを以て、充分の記跡を挙げざるベからず。若し、軽挙に出で、人を困却せしめたるものは、右の違約金を徴収す。一金・五十円、但し、出来ざる者は壱百日間の道作りの事。但し、道作りは、ーヶ月三日宛、一日の金によれば五銭の割、初会にて決議す。

明治四十二年旧十月十八日 浦避病院建築の件可決す。

大正五年(一九一六)総会決議事項 行合野県道工事運動員田中英治氏に依頼す。

魚市場変更の件

田中英治・栗原定治両氏にて、大正五年旧二月二日午後より大正十五年旧二月二日午前十二時迄、左記の件決定す。尚、浦方の両名は、契約書二通作成し双方壱通宛保存するものなり。

大正七年、班長、評議員外三名ずつ集会にて、村税等級割の協議をせり。

大正十年、初総会 漁業組合理事・監事選任の件

理事 松尾誠一郎 監事 松本今朝治 同 古崎定治

大正十二年 初総会にて、報徳金貯金、天野翁寄付金の残金を使用する事四七〇円

報徳会貯金、二〇七円五十二銭、寄付金募集評議員・組長と協議

購入委員 松本喜一郎 古崎定治

大正八年 初総会 北浦産婆薬価の件、之迄壱ヶ年一戸二十銭を大正八年度より三十銭に可決す。

大正九年 初総会 波止場及び市内の電燈新設、増設する場所、電燈料金の徴収方法は、組長・評議員に一任す。

汽船問屋• 発動船問屋変更の件

大正十二年度より波多津浦の経営にする事に協定す。但し、浦中の収入は、乗客乗入、貨物、艀賃、口銭を収得し、上陸客、貨物の川揚げは仲使人の収入とす。本年より一か年汽船部・塚部久太郎・発動船部 田中十太郎

魚市場を浦経営にする

大正十二年四月一日現在にて魚問屋引受計算書売掛金計六二〇円二十二銭。網方賃は五六三円五十三銭、以下略 差引受金高四一〇九円六銭、右基本金として支払す。共同販売所長 松尾誠一郎、同検査役 田中英治、同・松本今朝治、同・池田佐市、同・古崎定治、会計主任・前山和助、鍵取 栗原米造

大正十三年宿越峠埋込工事始まる。今年度、土木請負人市丸広太郎、区負担壱戸四分、一戸当り金一円三十五銭、人夫にて仕事することを決議す。

浦新地造成工事

大正十三年から三ヶ年を要して区民の奉仕により、トロッコにて土を運び工事を完成さす。当時としては画期的な大事業でありました。

大正十三年初会議 漁業組合理事 監事選挙の件

理事 松尾誠一郎 監事 松本今朝治 同 古崎定治

大正十三年、浦区にて初めて警鐘台新設可決。但し、場所は浦新地に可決。金比羅神社の本殿葺替の件、寄付にて可決。共同販売所建築可決。

一、入札期日 大正十四年旧五月二十五日

一、入札保証金 貳拾円

一、契約保証金 契約高の一割

一、入札当日の旅費、日当一切の費用は入れ者自弁とす。

一、請負人 松尾吉太郎 金壱千貳百参拾五円也

内、松の木七本、前島より材株とし代金三十五円見積り請負人に提供する。

大正十四年(一九二五)共同回漕部 はしきの件 第二号松浦丸、第三号松浦丸、第一鍋串丸、田中十太郎に一任す。那覇丸、鎮西丸、雑船、塚部久太郎に一任す。

昭和二年総会 共同販売所現金出納員選任の件

古崎定治 但し、任期二ヶ年とし身元保証人二名連署の上提供する事。報酬としては、

協議会にて是を定む。

漁業組合役員選挙の件 投票の結果つぎの通り当選す。理事 古崎定治、幹事 塚本豊治、同 田中弥作

昭和四年三月一日 壱月元旦より陽暦に改正する事。

青年会館建設の件 請負金 貳千五百円 区有志の寄付金、各戸負担の件

昭和四年起工していた防波堤及五本松地先防波堤計算承認(詳細省略)

昭和七年 青年会場の賃貸価格協定

一、興行 一日の貸料 金貳拾円也

一、集会 一日の貸料 金五円也

一、繭販売及産業奨励並びに公共に関するもの 一日の貸料 金三円也

前項の賃貸料は、浦区と青年会とで折半の事。

昭和十年総会(一九三五)

一、共同販売所存続の件

イ、昭和十年旧正月二十一日限り解散をなし、二十一日後は別冊として販売をなす。但し、現金制度として、理事・区長責任を持って取引をなすこと。

ロ、使用人として前山和助氏を旧販売所、整備期限中雇い入れ、一ヵ月貳拾五円として整備後は協議の上決定す。

ハ、整備期間中資金を要する場合は、借入れをなすこと。

二、清算付次第総会を開き、其後販売所については協議を以て決すること。

昭和十三年総会

一、監視哨の件

十八歳より四十五歳まで、各戸、肩押し出勤すること。戸別に貳拾銭宛集金をなし、一人に付、貳拾銭宛を与えること。各戸肩押しは人数如何に拘わらず一戸壱人とす。

昭和十四年総会

一、天野氏 医療辞退の件 承認決議す。

波多津監視哨

西暦一九〇〇年代 北方の異変を烽火をあげて、岸嶽の本城に伝える拠点として、アグリ山の地に監視哨の件、村中の評議にかかり、浦区は役目賃金、男七十銭、女五十銭にして工事を始め、十八歳~四十五歳各戸肩押し出勤する事。戸は二十銭宛集金をなし一人に付貳拾銭を与えると総会議事録に記載されている。平穏な状態が続いたが、突如として昭和十七年米航空母艦より発進した米爆撃機により、東京初の空襲があり、以後終日勤務に変わることになった。

昭和十八年度より、アグリ山に監視哨の移転工事が始まり、波多津小学校上級生及び村内の人々の奉仕作業と協力があり、一階を仮眠室、二階監視所、哨舎は当時県下に誇る優秀なものであった。県庁への直通電話もつながれていた。

哨長吉田和助、副哨長塚部正美、樋口好次、古崎泰三、高田為藏、大久保久と五九班にて日夜勤務にはげんでいた、哨員の苦労もまた大変であった。村内外から婦人会・女子青年等の慰問等もあり、哨員にとっては銃後の戦士としての誇りがあった。しかし、度重なる召集により人員の確保と戦局の不利な状況により、十九年の半ばになり、二階の部分を取り壊し、壕を掘り監視を続けていました。

間もなく戦争も終わり、記念碑を建て永久にその名を残すことになりました。

防空壕

大東亜戦争のため、米軍の航空機の空襲は大都市から田舎の地に至るまで、その危険にさらされていました。各家庭の庭先の防空壕は、空襲がひどくなる昭和十九年頃より危険度を増し、国や村の指示により、別に区内で七か所位作ることになりました。中組は浦潟組と協同して作ることになりました。その道の経験者に依頼して作業に入り、各組員は堀った土を運び出す仕事をしました。壕の中央には空襲の犠牲を少なくするために、左右二本の道路をつくり、昭和二十年春には完成しました。その後、度々の空襲警報のサイレンが鳴るたびに老若男女は直ちに壕に入って退避しました。

そして、終戦を迎えました。その後、この壕は損田から浦潟へ通ずる直線の近道として利用されていましたが、壕の中央付近に落盤があり利用不可能になりました。また、近くには消防格納庫の壕も作られましたが長くはもたなかったようです。

防空演習

小さな手押しポンプが、古崎家の横の空地の倉庫に格納されていました。演習は頻繁に行われ、銃後の守りは安全だと、婦人会等の意気込みは旺んでありました。隊長の号令一下、空襲警報発令、敵機襲来、何処何処に焼夷弾が落ち炎上中等の想定が下っていました。それに従って、それぞれの分担・役割によってポンプをひき出し、バケツの搬送・火叩き等の操作も勇ましいものでした。モンペ・防空頭巾等のいで立ちは、誠に前線さながらでありました。

竹槍訓練

竹槍訓練も、立派な銃後のつとめでありました。一m五〇cmの竹の棒を銃剣の代わりに銃剣術の構えで前後に進み、相手を突く動作でありました。機敏に、的確に動作して汗にまみれての猛訓練でありました。波多津小学校の校庭、浦青年倶楽部前の広場等随所にて、竹槍訓練のかけ声がこだましていました。若い人は、それなりの身のこなし方でまずまずでした。しかし、中年以上の人には、無理な訓練のように思われました。でも真剣な動作をみていると、土壇場での覚悟がうかがえたものでした。

恵比寿神社

浦中総会議事録によれば、明治二十八年九月、田中三太郎、田中金兵衛、古崎伝次郎発起人となり、浦区有志の寄付を募り、丘の適地を開いて広場を作り海岸より三十六段の石段を作り、祭神として祀ると記してあります。

古事をさかのぼれば、この根本に神社ありと伝えられています。神殿には赤松の古木があり通称男松女松、または夫婦松といって海中に飛び出すように壮厳な有様でした。浦区では毎年一月二十日に例祭を行い、以来、浦区の人、または、近郊漁民の守護神となり、出漁のおり、この下を通るときには、清酒を海に投じ、また、帰港のおりには、「えびす様」と唱えつつ獲物を海中に投じて大漁を感謝していました。現在は、浦区を代表して氏子総代が神主さんとともに例祭を行っています。

猿神様

町公民館横の高台に祭壇があります。猿神様はその昔、一本の大きな木が立っていました。そこへどこからともなく一匹の女猿があらわれ、大木の上に乗っていました。ある朝、猟師が現われて猿に銃口を向けました。それに気付いた猿は、大きな腹の中心をさすって猟師に合図しました。猟師はうなづいて銃口は火をふきました。猿は絶命をしました。猿のお腹の中には子供が入っているから撃たないでくれといったのを、猟師は撃てと言ったと受け間違えたのです。その後、猿の墓を建て冥福を祈りました。

そのお祭は九月二十八日です。その日には、近郊の人たちが集って賑やかでした。後に金比羅神社に合祀されましたが、また、元の位置に安置されています。

竜神様

漁協事務所前に鎮座してある竜神様は、天保八年に建立され、浜新地が出来るまで土居の土手の上にありました。それが浜新地の岬の突端に移転され、その後、埋立が完了して現地に鎖座してあります。先祖から魚介類の霊を慰め、豊漁を祈願する漁民や住民は家内安全も 併せて、お祈りしています。

浦区では、四月三日に区長、氏子総代、漁民、区民等たくさんの人がお詣りしています。

高尾山公園

そめい吉野など一〇〇〇本におよぶ桜の満開、一時に咲きそろい、市内随一の桜の名所が高尾山であります。展望台からはいろは島はじめ湾内に浮かぶ島々が見れます。その島々は 四季おりおりに富んだ景観を楽しませてくれます。

山の中腹の駐車場は、昭和四十五年吉田定兵衛の寄贈によるものです。約三〇〇aの広場で、その上に第一の鳥居(明治十三年、巳九月立石者、田中徳四郎の寄贈)があります。その石段四十五段を容易に上れるように昭和五十七年(一九八二)十月に吉田町造寄贈の手摺が作られています。右の方へはお大師様があり、区民の信仰を集めています。左に進み、登りつめたところに広場があります。浦区は大正元年(一九一二)十月十日にこの広場に天野翁の記念碑を建立しました。

われわれが小さい頃は、この広場は運動会に備えて稽古の場でもありました。角力をしたり、遊んだりした場所でもありました。また、浦区の花見のおりは、ここに組の名前を染めぬいた横断幕をめぐらしたものでした。

第二の鳥居は、神戸に住む、当町出身の古川叶の寄贈によるものです。第三の鳥居をくぐると金比羅神社の神殿があります。

山には大正五年に植えられた桜の大樹とその後に植樹された桜が一ぱいあります。波多津浦若連中が奉納された碑には天保六年(一八三五)享保十四年(一七二九)、畠津浦中と記してあることから多くの人々の信仰のほどがうかがえます。

社は明治四十年に改築され、旧年旧十月二十八日御輿塗装工事、昭和十二年(一九三七)拝殿改築が行われました。こうして、町民の山として崇められるようになりました。

ところが、昭和六十一年八月末台風十二号に遭い山の樹木が倒されてしまいました。その年に浦区民の奉仕作業により若桜二〇〇本の記念植樹をいたしました。

高尾山の「記念碑」の碑文

濫費ハ漁村ノ通弊ニシテ此ノ地亦貯蓄思想ニ乏シク、偶不漁ニ遭遇スル時ハ、困難実ニ、名状スベカラザルモノアリ。識者之ヲ憂ヒ、貯蓄ヲ奨メ凶荒ニ備エンコト諮ルモ、衆議ノ容ルルトコロトナラズ、徒ニ有志ヲシテ、前途ヲ憂ヘシムルコト既ニ久シカリキ。明治二十六年田中徳治氏ノ総代ニ選バルヤ、挺身公共ノ事ニ当リ、殊ニ漁村貯蓄ノ必要ヲ鼓吹シ、有志ニ諮リ興論ノ喚起ニ努ムル等、熱誠感ズベキモノアリ。偶馬蛤潟新田ノ埋築工事ノ起ルニ際シ、築堤甲トシテ潟土採堀ノ需ニ応ジ拾五円ノ報奨ヲ得タリ。氏大ニ喜ビ有志ニ諮リテ之ヲ蓄積セリ。是レ共同貯金ノ嚆矢ニシテ、其後幾多ノ困難ヲ機シ、地祖及ビ営業税納付ニ際シ其ノ百分ノ一ニ相当スル金額ヲ拠出シ共同貯金ニ編入スルノ制ヲ立テタリ。爾来、総代区長ノ更迭アルモ、其ノ轍ヲ継承シ、今ヤ現金貳千餘円ヲ有スルニ至レリ、里人之ヲ徳トシテ金ヲ醵シ碑ヲ建テ、後世ニ傳へ、以テ長へニ、勤倹ノ美風ヲ存シ後人ヲシテ永ク其ノ徳ニ倚ラシメントス。           大正元年十月十日

いろは島

伊万里湾には、大小無数の島があるといわれます。

「島なんてないよ。ほとんどないんじゃない」

と首をかしげる人がいます。でもたくさんの島々があるのです。伊万里市民にとっては身近かに感じないかも知れません。

いろは島は、島山島、弁天島、帆立島、小島、十コ島、四十が島、野島、松島など、いろは四十八を数える程にあることからこの名がつけられたそうです。実際の数は、潮の干満によって見えがくれする岩場程度の島を加えると四十八を越えるのです。

高尾山の展望台からは箱庭のように、美しい光景を目にすることができます。春の潮干狩や、夏の海水浴等大へん賑わっています。

大水害

昭和二十八年六月二十六日浦区は未曾有の水害にあいました。古老の話でも今までにない突然の水害であるという。前夜までの雨は普通の梅雨位であったのが、夜半から突然豪雨となり眠られぬ一夜が明け始めました。雨はいくらか小降りになったので、戸外に出てみると、浦方の方から水が道路を流れてきているのでした。米屋の前に来てみると、水が長靴の中に入る位の水位になっていました。

夜明け前のこととて全戸まだ眠っていました。

「水が流れてくるぞー」

と大声で叫びました。眠りから覚めた人々は、すでに床下浸水になっている実状にびっくりしました。雨戸の上約三十cm以上の水流は、土井町を包みこみ中町をのみこんでいきました。道路を流れる水の勢いに呆然として手のほどこしようはありませんでした。あふれ流れる水は瀧のように海に落ちていきました。

この原因は、中学校校舎新築のために材木を運動場や其の付近に積んであったのが、一度に流れて井樋を塞いだためでありました。消防団員全員が召集され大さわぎになりました。

まもなく満潮時も過ぎ、水は海に落ち流れましたが思わぬ大きな被害にあいました。

波多津簡易水道

浦区民は各組に一ヶ所位の井戸があって、その井戸水を共同で使用していたのです。渇水状態が長くなると、水不足になり困っていた時代が長く続いていました。昭和二十八年(一九五三)簡易水道の話がもち上がり嶽の溜池を利用して貯水池をつくり、昭和三十一年に貯水池より浦潟付近まで水道管の埋設が終わり、昭和三十二年浦区の主要道路で埋設工事が始まりました。

当初は、二三〇戸加入の目標でした。が先づ、三十戸位の利用者にて給水が始まりました。しかし、漏水が甚だしく雨の後でも貯水池は二・三日経つと渇水状態となっていました。伊万里水道部の管理になって補修工事が何回も行われました。そして、地下水を揚げる事となり、区内三ヶ所にボーリングをしました。三ヶ所に溜った水を一ヶ所に集め、水源地に揚げることになりました。昭和三十五年現地に水神宮を祀り漏水防止を祈念することにしました。昭和三十八年、その工法を繰り返しながら逐次漏水はなくなり、昭和五十五年に拡張工事をして貯水槽二五〇tを加えました。さらに昭和六十三年、三〇〇戸分、一日二七〇t~三〇〇tを配水するようになりました。

しかし、現状では、夏の水はカルキの量が原因で匂うようになりました。早急な改良給水工事を全戸期待しているところです。

浦の盆踊り

毎年盆が近づくと、年齢は問わず、職場職場にて、盆口説を一か月前から練習をしていました。ロ説は、「おつや口説」「祐徳丸口説」、「さぶろう口説」とがあり、月の夜になると、公民館で鐘や太鼓に合わせて練習をしていました。

戦後は、青年団員も少なくなり、一時は老人と子供が主となって盆踊りは続けられてきました。しかし、再び青年が主となって続行するようになりました。

浦の盆踊りは主として、初盆を迎える家をまわって故人の霊を慰めることにしています。

精霊流し

盆が近づくと、初盆のところは、親戚一同集まって、精霊船の準備がされます。小さい舟を船大工さんに注文して作ってもらい、約一週間以上の時間をかけて飾りつけをします。満艦飾にでき上がった精霊舟を町内の人々に見てもらい、八月十六日午前零時頃から満潮時に向けて、飾り立てた舟をそれぞれの初盆の家の趣向によって流すのです。住職の読経と共に流しながら故人のありし日を偲ぶのです。そして、また来年のお盆にお出なされと身内の人々は合拳して流れていく舟を見送ります。

また、初盆以外の家々でも、佛様をもっている家は麦藁で丸くまるめて六尺位の竹ひごを通して舟を作り、これも出来るだけ装飾して、同じ時刻に精霊舟を流します。

近年は麦藁も少なくなり、木の舟(一m五十cm位)を船大工さんに作ってもらって流しています。

このように精霊流しは、昔から変わりなく続けられています。この頃は、相当の費用をかけて、打上げ花火も加わって、盆の風物詩となっています。

波浦橋

昭和二十三年より、二十六年にかけて、田中本店前より藤森秀雄宅前に至る新道は、家屋の移転等があり、大変な事業でありました。昭和二十七年木橋の波浦橋が架けられ、この上もなく便利な主要道路となりました。橋が出来る以前は、野林から郷ノ浦に行くには、吉田菓子店の前を通り、塚部酒店前を右折し、塚部米屋の前をさらに右折して土居町の(デー)から赤崎の岩の下を通り、松本精米所を通っていました。

しかし、国や県の予算は少なく、事業といって炭坑離職者が就労していました。山口宅の上の小さな橋で工事は中止となりました。そこで当時県議会議長であった山下徳夫に、昭和三十六年、古崎泰三、野口義一が陳情をしました。内容は、従来の道路は幅員が狭く、起伏が多く、中学生の通学に難渋しているということでした。これを早期に解決して欲しいという要望だったのです。

そんなことから、町民は、町で造ろうと計画をし、全戸から出労するという誠意を示しました。三度に亘り、古崎泰三、野口義一は揃って県会議長室を訪ねました。県の土井垣道路課長(後の土木部長)も同席でした。町の東西を結ぶ重要な道路だから、是非とも早期完成をお願いしたい旨伝えました。二・三日後に渡辺出張所長に県より連絡があり、道路課長、山下県議が現地をみたいから案内を頼むというのでした。当日は両氏とも地下足袋を履いた軽装で、岩の本地区の見える山頂まで踏査されました。

「県の道路課長が、こんな所まで現地視察をされるのは初めてのことですよ」

と山下県議会議長は言われました。

その後、二週間ぐらいして国道に昇格して工事を決めるとの議長からの電話がありました。大変な喜びでした。関係者の間で祝盃をあげたほどでした。それから工事はとんとん拍子に進みました。

昭和四十二年道路拡幅工事がなされました。中学校横より恵比寿様までの間の二車線工事がなされました。家屋の移転等もありました。国道のバイパスとしての工事は終わり、町の中心的役割を果たすことができました。信号も取り付けられて大変美化されました。

福島橋

大正の始めの頃より福島町発展の鍵は、波多津と橋で結ぶ以外に道はないと考えられていました。福島町の志水八太郎と波多津の古崎定治との間に話があっていました。

昭和三十年に入り最初は煤屋福島間高圧電柱北側百m位、祝崎より煤屋海岸に飛石伝いに通ずる架橋計画であったので、波多津は浦区を中心に全町をあげて、浦を通過しない架橋地点並に道路方線には、絶対反対を表明しました。橋口伊万里市長も、事態の重要性を心配されていました。その間、保利代議士の斡旋により、浦区有林・餅の木より福島町喜内瀬に架橋することに決定し、具体的な話し合いができ、両県による現地視察の後、福島橋の実現となりました。

このような曲折を経て、見事大橋の開通式が行われた昭和四十二年十月のその日は、波多津からも、多数のパレード参加等もあり、大きな喜びを共にしました。両町は、その後も益々親密な隣どうしの関係です。

波多津急傾斜地崩壊危険区域

1、昭和四十五年十一月三十日指定

公示番号 第四八八〇号

指定面積 四七八

上組より郷之浦組の順に指定を受けて順次工事が始まりました。

2、県知事告示 第一〇七号

第一次工事に続いて、浦潟組より下野林地区まで工事が始められました。

3,昭和五十七年四月二十日 告示

第二五一号により残り地域・高尾組の工事がありました。今まで地元負担がなく話も順調に進んだけれども昭和五十七年より五分の地元負担があるようになりました。

昭和六十年度に至り全体の工事が終了しました。

浜新田の埋立工事

昭和四十七年三月、浜新田の埋立工事が始まりました。浦区としては、流水・冠水で毎年悩まされていたので、災害禍等の不安がありました。工事中止を市当局に請願しました。

諸問題を解決して昭和五十五年に土地区画整理事業が行われ、井樋等の大型化により種々の懸案を逐次解決して埋立ては終わり、これにより浦区の内陸部は大きく変容することになりました。

湾内浚渫と市道建設

昭和三十三年湾内は長い年月の混土の累積により漁船の停泊及び通行に支障をきたしていたため浚渫工事がありました。現在、辻より肥前町へ通ずる市道もできました。

市営住宅

波多津小字校上の道路東側にあった教員住宅を他の地に移転建設してくれとの要請があって、浦の登記所の上に移築しました。

浦区役目賃金

  年      男賃金     女賃金     

昭和十八年    一円八〇銭   一円四〇銭 

 昭和二十二年     二一円     一六円

 昭和二十八年    一八〇円    一三〇円

 昭和三十二年    二八〇円    一六〇円

 昭和三十六年    三〇〇円    二四〇円

 昭和四十年     四〇〇円    三二〇円

 昭和四十五年    七〇〇円    五六〇円

 昭和四十七年    九〇〇円    七二〇円

 昭和五十二年   三二五〇円   二二七五円

 昭和五十六年   三四〇〇円   二三八〇円

 昭和六十年    三七八〇円   二八三五円

 昭和六十三年   三七八〇円   二八三五円

    天野翁頌徳碑

      正三位子爵 小笠原長生書

(碑文)

君通称房太郎唐津藩士也、小壮学於佐賀医学校卒業後及第於医術開業試験而為医士、君不満假之更登東都究細菌法医精神学校衛生諸科之蘊奥、帰来歴任子検疫官学校医村医等。明治二十六年開業於波多津村・春風秋雨三十年如一日矣・而君之接患者也不問親疎不論貧富慎重懇切至矣.監矢遠近知與不知皆集君門。君慈仁博愛恤無告救窮之其開業之初、先発診療低薬價広開施療済生之道得一村、之保健悉依君而安定人々以欽仰軒岐頌揚其高徳今茲大正十一年君齢達耳順元気益々旺盛精励干業務壮者亦不及焉、業間或親書画或愛謡曲以大発揮英雄胸中閑日月、児孫詵々満千内和気洋々溢千、外可以知君之前途躋古稀未齢而九十而百積善之寿域尚無窮茲村有志齊謀欲歎君之高徳於右傳千不朽令予銘之銘日

術究 軒岐 徳覃 四郷 以壽 以福 山高 水長 

大正十一年十月中澣

西松浦郡長 正六位勲五等 樫田三郎撰