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第八章 産業


第八章 産業
(2021年11月12日更新)

第八章 産業

第一節 農業

一、農具と農法

明治、大正時代の農耕は、水稲作は牛馬に(すき)を引かせて耕やし唐鍬等で碎土(さいど)し、これを数回繰返してから水を入れ、馬鍬(まが)でかきまぜ整地して田植えをしました。畑作は犂で耕し、鍬で整地をして種蒔きをしました。

昭和時代になって、犂は底にすらせの付いた深浅自在で安定した犂(山崎式、瀬戸式等) が発明され、更に水田裏作には(あぜ)立てに便利な片揚げ用の犂が流行し、裏作の為に便利になり溝揚げ犂の併用で能率が向上しました。更に二段耕犂の登場により土塊は小さくなり飛行機羽根のような碎土機の開発によって碎土が簡単になり、裏作の能率は格段向上をしました。

昭和三十年代になると、耕転機が開発され、農作業に一大革命をもたらしました。しかし、高価の為当時零細農家は安易に入手することはできませんでした。昭和三十五年池田内閣の所得倍増計画により、農村も兼業収入等により農家経済も幾分向上し、又、農業近代化資金の導入と相待って耕転機は急速に普及しました。更に昭和五十年代に入り、国、県の助成により圃場整備が行われ耕地は区画整備されて、トラクター等の大型農機具が導入されるようになりました。

二、農作物の耕種

〇米作

往時の米作は、八十八夜頃種籾を浸種し、五月十日頃籾蒔きをして四十日乃至四十五日の苗を本田に田植えをしました。本田は田植前に(しろ)あけをし、肥料として山野より草を刈取ってきて、すき込みすき戻しをして植代かきで田面をならして田植えをしました。

除草作業は、第一回目は(がん)(づめ)打ちをしました。(手打雁爪で田面を打返す)第二回目は雁爪ならし(手で田面をかきならす。草も取る)第三回目(三番草という。手で田面の草を取る)第四回目は前回と同じ作業でした。昭和の初期頃から能率のよい手押雁爪が流行し、以後は手打雁爪を使用する人はなくなりました。

早生稲は十月より稲刈をしましたが普通は十一月より稲刈をする人が大部分でした。

脱穀は千歯で脱穀し、トーミで風撰をして塵芥を除き、ネフキという(むしろ)に干して乾燥したらトースで籾摺りをして、万石という米撰機で撰別して俵に入れたものです。

現在はコンバイン(稲刈と脱穀が同時にできるもの)が登場し、ライスセンターで共同乾燥並に調整ができるようになり米の品質検査を済ませ共同販売入庫までできるようになりました。

米の販売は、昔は個人販売でしたが産業組合(現在の農協の前身)が発足してから共同販売となり、戦時中より食糧管理制度によって食糧は国の掌握するところとなり現在農協が集荷販売をするようになりました。

〇麦作

稲の収穫が終わって芋掘り等片付いてから、水稲あと地に麦田揚げをして麦の蒔付けが行われました。冬の間に中耕、除草、施肥、土入等を行い春の彼岸頃までにサコ揚げをしました。この作業は麦田渕と溝を雑草共にけずり取り畦の上に上げます。これは除草と乾燥を図るものです。五月下旬頃色づき成熟してから刈取り、手こぎ千歯で麦穂をこき落とし天日に干して鬼歯で叩きトーミで風撰し更に天日に干して俵に入れました。後に動力による麦摺機が登場して殆ど業者が脱穀するようになりました。現在では米と同じくライスセンターで共同乾燥調整するようになりました。

〇その他の雑穀

その他の雑穀として大豆、小豆、粟、そば等が自家用程度に栽培され、収穫もそれぞれ手作業で行われていましたが戦後の食糧事情の好転により雑穀栽培の農家は激減しました。しかし、最近は政府の奨励もあり水稲の減反田利用によって、大豆等を栽培する農家がありますが、その数は少なくなりました。

〇ハウス栽培

水稲の減反政策によりハウス栽培農家が漸次増加しつつあります。その作目は大体イチゴ、胡瓜等です。ハウス栽培の他に最近玉葱が栽培されるようになりました。

戦後普及された、たばこ、養蚕、お茶等は専ら上場の開拓、木場にて少人数大画積の経営となり下場では、イチゴ、胡瓜、玉葱等が増産されつつあります。みかん栽培の他に、一部で梨、桃等の栽培も行われています。

胡瓜は、畑河内選果場より大型トラック輸送で大阪市場に出荷されるようになりました。

〇防除作業

水稲の病害虫で主なものは、害虫では、めい虫及びうんか、病害では稲熱病があります。  lめい虫の駆除

明治、大正時代は、苗代でめい虫卵を採取しました。この作業は小学生が適任でした。採取数量によって、区長が若干の報酬を支払ったりしました。本田での駆除は期日を決めて一斉に被害茎の抜取りをしました。

lうんかの駆除

うんかの発生を見たら、除虫油(石油に除虫菊を溶かした油)を水面に流し、その油を水と共に稲の茎に洗いかけ、うんかを洗い落とし、うんかを死滅させるという方法でした。

lホリドール剤の登場

昭和三十年代になって、害虫駆除用としてホリドールという有機燐製剤が発見され害虫駆除に威力を発揮しましたが、これは人命を損傷する危険が多かったため使用禁止となりました。他に粉剤としてBHC、DDT、等使用されていましたがこれも後に使用禁止となりました。

l稲熱病の防除

稲の病害で最も被害の大きいのが稲熱病です。往時は一度この病気が発生すれば、ボルドー液等を作り手押噴霧機(所有者だけ、所有者は極く少なかった)等で撒布しましたが、水田撒布は容易ではなく、防除器具のない被害農家は傍観するよりほかなかったのです。

現在は、農機具の機械化も進み農薬も優秀なのが揃っていますので、防除作業は徹底的に行われるようになりました。

三、農作物の移り変わり

当地方においての農作物は、米、麦が主体でしたが、戦時中食糧の不足により主食の米麦に加え甘藷も主食として増産が叫ばれました。戦後たばこの栽培が導入され、その後更にみかんが爆発的に増殖されましたが、食糧事情の好転に伴い甘藷の作付けは漸次減少し、みかんもグレープフルーツ他の輸入農作物の自由化に伴い価格が低迷し、減産の巳むなきに至りました。

一方、米は品種の改良、技術の進歩によって反当収量は大いに向上し増産されましたが、輸入農産物の自由化と食生活の変遷により消費が減少してきたので減反(作付面積を減らすこと)の巳むなきに至り、農家の農業収入も漸減してきました。そこで、土木、建設等の農外作業に従事する者が多くなり、その収入を以って生活費に充てる農家が増加してきました。(専業農家から兼業農家へ移行し専業農家は激減している)

四、農家のくらし

昔の農家は質素を旨とした生活でした。

衣服は、盛装では羽織、袴がありましたが、普だん着は和服で、作業衣は上衣と脚には股引をはき、女性は上衣と腰巻、脚には脚袢をしていました。

食物は、普通は麦飯で白飯(米だけの飯)はめったに食べることがなく、副食は主に菜食でした。住居は母屋と小屋があり、母屋は住宅で小屋は収納舎と畜舎になっていました。屋根は殆んど茅葺で瓦葺の家はめったにありませんでした。

昔、大きな農家では農作業員として「ばぼ」及び「あんね」を雇っていました。

「ばぼ」や「あんね」は主に農家の骨折る仕事をさせられました。「ばぼ」は、秋の八朔の節句から翌年の春の三月の節句の間(何れも旧暦)昼間の仕事が終わってから、毎晩、藁一手(ひとて)(一手は両手で握る程度)宛、縄ないをしなければ寝ることができませんでした。

夏の田の草取りなどは、重労働でした。夏日のかんかん照りつける中、水温の沸き返る水田に入っての作業は、腰は痛いし日は長いし、誠に重労働でした。

しかし、おもしろいこともありました。田植前には農家は必ず浜崎のお諏訪様参りがありました。(諏訪神社には(まむし)よけの御砂がお供えしてあり、これをいただいて帰り、蝮の出そぅな所に御砂を撒くのです。)集落の青年男女も相集い参詣し、楽しい年中行事の一つでした。

田植が終わったら、さなぼりがありました。これは農繁期が終わった後の慰労会で、田植に加勢に来た人も招待してもてなしました。

盆には、先祖の供養と盆踊りがありました。この時は、奉公人達も帰省して郷土の祭りに参加し、楽しいひと時を過ごしました。

(くん)()は、秋の収穫が終わった頃集落の氏神様祭りを行い五穀豊穣の感謝をする日です。この日は親類、知人を呼んで、常日頃お世話になることへの感謝の念を込めて精いっぱいもてなすのです。

昔は旅役者がいてこの一座を集落で招き、露天に舞台を作り芝居興行をしました。この芝居のある集落の近くの親類、縁者等は「花」を打たねばならない(寄付をすること)ので大変でした。附近の青年男女も殆ど見物に出かけましたので恋の芽生えるよい機会ともなったのです。

五、畜産

昔から農家は牛又は馬を一頭宛(大きな農家では二、三頭の家もあった)飼育していました。これを農耕用に使用し、敷料は堆肥として肥料にしました。

戦後耕転機、トラクター等の導入により家畜の飼育者は次第に減少し、現在は農耕用としての飼育者はなくなりました。そして、畜産は肉牛、肉豚、ブロイラー等の多頭飼育となり、その戸数は極端に少なくなりました。

六、製紙業(紙すき)

江戸時代・唐津藩主・土井周防守源利益公の時代に、波多津東部地区(井野尾・田代・板木・津留・主屋)と、南波多・黒川の一部=当地方の農家は、農地も少なく、特産物もないことから、副業として、手漉和紙を奨励されたと聞かされていました。

紙の原料となる楮(カゴ)は、其の当時、藩の財源として重要視されていて、楮は紙木とし、荼桑と同様に年貢の対象とされ、楮の石盛りは高く、上紙木で歩当たり一升八合又は二升で、反当たりに直せば五石四斗ないし六石といった石盛りでした。しかも、原料の楮は、はじめは自由販売でしたが、水野忠任公の入部と共に専売品となり、時の相場よりずっと安い値段で、強制的に買い上げられていたそうです。尚、楮の生産は米で年貢を納められていたそうです。

昭和八年(一九三三)現在の浜玉町内又は、虹の松原一揆に楮三万本の強制植付があったそうです。浜玉町は、波多津より早くから製紙農家があったと聞いていました。

紙の原料となる楮は、自家生産と各農家で育成されたものにより生産されていました。

いつの時代か専売制も解消して、自由に原料も購入ができるようになったそうです。楮の木を切り揃え、たばねたものを大釜の中に入れ、水を入れて大きな桶をかぶせて蒸し楮の皮を取る作業を「カゴモシ」と言います。

楮の皮を川に浸して柔らかにし包丁で黒い皮を取り除く作業を「カワトリ」と言い昭和十年頃は紙すき農家は家廻りで共同作業が続けられました。夕食後夜十二時まで皮取り作業があっていましたが、これは冬の寒い時期だけの作業なのです。この楮の皮で製造したものが波多津特有の唐津半紙と名前が付き有名品でした。

〇紙すきについて

乾燥した楮皮を川の中に浸してから消石灰とよく混ぜ合わせ、大きな釜に入れて一日中火を焚き楮の皮を取り除く作業をする。次に水でよく洗い水田に水を入れて晒します。天気のよい時は二、三日で漂白されます。それを「カミタタキ」と言う粉砕作業を通して細かな繊維にするのです。主に夜の仕事でしたが、後に機械に依り粉砕するようになり、たいへん楽になりました。粉砕したものを紙船に入れ「オーレン」と混ぜ合わせて()(げた)ですく。主として主婦の人が紙すき作業でした。

〇紙の乾燥について

昔は天日乾燥で、天気のよい日を選んで大きな板に張り付けて乾燥していましたが、大正の初期頃より鉄板による火力乾燥となり、水を入れ火を焚き熱湯と蒸気により乾燥する冬の紙製造の最盛期は、午前二時頃から早起きをして、家族全員で「紙ホシ」作業が行われました。紙乾燥は家廻しの五、六日ぐらいで、夜十二時頃まで作業しました。

〇紙の種類と販売について

大正五年頃までは、小裄で大福帳・障子紙の製造であったらしいですが、障子紙製造は南波多方面に移り波多津は塵紙(ちりがみ)専用で製造されていて、紙にも製造方法により種々あります。薬品をいれ純白にした(きょう)花紙(かし)。前記、包丁で皮を取ったものは唐津半紙。楮の二級品で製造した(しろ)()。楮の三級品は、くず紙で最下位となっています。

京花紙と唐津半紙は、当時の花柳界と上流家庭に使用され、白保は一般家庭に使用されていました。

販売方法は、仲買人が買い、紙問屋又は北九州地区・大阪・東京方面にも送られていたそうです。紙の規格は一〆二千枚単位で束にしたもの、長さ約二十六・七cmで巾は二十cm位となっています。当時一〆当たり二円五十銭程度と思いますが、昭和十年頃・戦後は五円位と記憶しています。

原料を全部購入の場合は、販売高の半分が利益となり、昔は「すきわけ」と言っていました。

紙すきは、家族全員で仕事ができ、家内工業としては最高でした。当時は紙製造農家は多忙でしたが、暮らしは豊かでした。時代の進歩に伴い機械紙が出回るようになり手漉和紙も対抗できなくなり、又、一方では原料の楮も農用地開発で掘り取られ、原料もなくなり、何百年と続いた製紙業は昭和の中期頃で終止符を打ち、自然消滅となりました。

(参考)

昭和十年頃の紙の価格と人夫賃

〇紙一〆    二円五十銭

〇男­=一日日当 五十銭

〇女=一日日当 三十五銭

七、波多津における農民の協同組織の歴史

(1)明治四十三年二月 無限責任 馬蛤潟信用組合設立

大正四年 三月 解散

明治四十三年三月 無限責任 板木信用組合設立

組合長 加川公夫 解散不詳

(2)大正十四年九月 有限責任

波多津村信用販売購買利用組合設立(産業組合)

出資金 三千二百十六円(一口 金十円)

組合員 四百四十七名

初代組合長 稲葉義勇(村長兼務)

二代組合長 加川公夫(村長兼務)

イ、当初、事務所は役場二階、小会議室

ロ、昭和五年十二月 組合事務所新築落成

ハ、昭和八年四月 従前の有限責任を保証責任に変更

(3)昭和十九年三月 波多津村農業会設立(波多津村産業組合は解散)

出資金・会員数は不詳(出資一口金二十円)

初代会長 田中英治(村長兼務)

二代会長 井手文吉

三代会長 高田金治郎

戦局困難な昭和十八年「農業団体法」が制定され国策協力団体として、農会・養蚕組合を合併して設立されました。

(4)昭和二十三年八月 波多津村農業協同組合設立(農業会は解散)

出資金 十九万八千円

組合員 五百九十二名

初代組合長 高田金治郎

二代組合長 田中正爾

第二次世界大戦の集結で、占領軍司令部による「農地改革に関する覚書」により農民の経済的、社会的地位の向上を目的として設立されました。

イ、昭和二十七年二月 農協事務所及び購買店舗全焼

ロ、昭和二十七年七月 上、新築

ハ、昭和二十九年四月 第二事務所及び店舗改築(井野尾)

ニ、昭和二十九年四月 波多津農業組合と改称(町村合併による)

(5)昭和四十年十月一日 伊万里市農業協同組合設立(合併により)

出資金 六千四百七十八万円

正組合員 五千四百八十三名

准組合員 一千百六十五名

計 六千六百四十八名

初代組合長 松園春美(黒川町)

二代組合長 田中正爾(波多津町)

三代組合長 吉田紀夫(黒川町)

当面の諸問題を解決するには、大同合併により規模拡大を図り、健全で強固な組織づくりが大切であり、又それが合併の目的とされ、市内の大川、南波多を除く、十農協が合併し、各農協はそれぞれ支所となるように考えられました。

イ、昭和五十七年 波多津支所改築

ロ、昭和六十一年 井野尾出張所改築

八、農業の現状と今後の課題

(1)農業基盤整備への取り組み

昭和三十六年に制定された農業基本法は、農業に専念し、都市の勤労者に匹敵する所得を確保できる農民を作り出すことを政策目標に掲げ、そのプログラムとして、需要の増加の見込める作目(畜産・果樹・野菜)の生産を重点的に伸ばす選択的拡大を目標に据えていました。

このような農政の流れを受け、波多津町でも国の補助事業の導入による生産基盤の整備が積極的に実施されてきました。昭和四十年には筒井地区で農業構造改善事業によるみかん園の造成、昭和四十七年には木場地区で養蚕団地造成のための農地開発事業の着工、昭和五十年代に入ってからも辻地区の茶園造成、田代・中山地区の梨園造成事業と次から次へと山林の開墾による優良農地の造成確保が実現してきました。

一方、既存水田の区画整理も五十年代には同時に進められ、東部地区では県営圃場整備事業、西部地区では農村基盤総合整備事業を導入して今日の水田の整備が完了しました。また、伊万里市最後の大形プロジェクト事業として推進されてきた国営総合農地開発事業は、波多津町内では当初井野尾、中山、辻の三地区が候補地としてあげられていましたが、最終的には平成三年に中山地区の農地開発のみが実施されるに留まりました。

(2)農業生産の動向

農業基本法制定後の農業生産の動向は、昭和四十年までは米、みかん、畜産の三つが大きな柱であり、農畜産物販売高は二〜三億円台で推移していましたが、農業基盤整備の進行と相俟って十億円の大台突破と飛躍的な伸びを示してきました。

これは、昭和五十六年、五十七年にかけて導入された新農業構造改善事業の効果による畜産販売高(肥育牛、ブロイラー)の増加によるものであります。とりわけ肥育牛の生産は堆肥センターが設置されたことにより一戸当たりの飼育頭数が増加して規模拡大が進み、平成二年には農産物販売高二十億円達成に大きく貢献することとなりました。これらの功績が全国的にも認められ、平成四年に東部地区が全国の農業構造改善実施地区のなかから優良地区として晴れの農林水産大臣賞を受賞しました。

また、昭和五十八年の筒井地区を皮切りに施設胡瓜団地の建設ラッシュが始まり、昭和六十年には 田代・津主地区、昭和六十一年には井野尾・内野地区でハウス胡瓜の栽培に取り組まれました。その後、筒井、井野尾地区で一部規模拡大が進み今日にいたっています。昭和五十七年ごろから始まった露地胡瓜の生産も水田転作の主要作物として定着しており年々拡大化傾向にあります。

一方、昭和四十年代に登場した養蚕とイ草栽培は、価格低迷により平成六年にイ草、平成七年に養蚕がそれぞれ波多津町の農作物から姿を消していきました。

(3)農業の将来展望と課題

日本の高度経済成長期という時代の流れのなかで、基本法農政が目ざした農民への都市勤労者並みの所得確保という政策目標は所得格差是正も達成できないまま、農業労働力の他産業への流出、農家戸数の減少と農業・農村の衰退という道をたどってきました。農業就業者の高齢化と後継者不足は、日本農業の抱える問題であるとともに、即波多津町農業の克服すべき課題であります。近年、他産業へ流出していた労働力の農業への環流が一部見受けられるようになったことは、農業にとって少しばかりではありますが明るい兆候であります。

現在、農業基本法の後継としての『食料農業農村基本法』の国会審議がされています。国民食料は国内農業生産を基本とすべきかどうか、食料自給率目標をいかにすべきか、中山間地域の振興をいかにすべきか等、農業・農村が持つ多面的な役割について諭議されているところです。

高度経済成長期はモノ、カネを追求する時代でしたが、日本経済も成熟化し高齢化社会を迎えた今日では、健康、命を大切にする時代へと大きく変わろうとしています。波多津の農業が町民の命を守る産業として、さらに高齢者の生き甲斐を提供する産業としてさらに飛躍することを期待します。

九、馬蛤潟新田と力武新田沿革

〇海を干拓して造成された馬蛤潟新田

元禄の終わり頃(一七〇〇)までは、煤屋も馬蛤潟もまだ海で、煤屋は大阪溜の下あたりまで、馬蛤潟は飯盛下から松の本まで、どちらも奥深く入り込んだ遠浅の入江でした。唐津藩は、代々開田奨励策をとっておりますから、煤屋、馬蛤潟を見逃すはずもありません。いよいよ時機到来、馬蛤潟の干拓工事が始まりました。

(以下は馬蛤潟区渡辺雅家保有資料による)

(1)時―土井周防頭様御代(既述唐津藩歴代領主参照)

イ、藩の相当役人

御仕置御家老 井上新左衛門様

(こおり)御奉行(おぶぎょう) 秋田孫左衛門様

御代官所 丹羽次郎左衛門様

水御奉行 小林長太夫殿 同断中森佐治平殿

ロ、工事開始―宝永三丙戌(一七〇六)十一月十一日。御城下より役人便乗石船五艘廻り、

 ・・・・・・船()()は領内の浦々から五十人づつを集めて、深浦に小屋掛けで泊まりこませ、十二日から方々の浦々から石を()ぎ寄せ、大堤防予定地の今の竜神社下から、南の方今の消防小屋の所まで投げ入れさせた。一方藩の山係役人が()(こり)十人をつれて辻の中薗山に泊まりこみで、石工道具の柄など千丁分も作らせ、次の仕事の準備を整えた上で、師走の二十五日までにはそれぞれに帰宅された。

ハ、宝永四丁亥正月十一日。藩役人お越しになり、方々の村より大工を十人集め、二間に入間の小屋を五棟建てさせ部屋割りまで二十五日に終わり、次に始まる堤防工事の準備をされました。

万全の準備で始められた大堤防工事は二月から開始されましたが、工事現場の責任は庄屋さんたち、総責任は畑河内組大庄屋兼武弥七郎、直属辻村庄屋川上与一郎、隣村畑津村庄屋青木左治右衛門、同内野村庄屋堀田弥一郎この四人は夜昼となく、事務所に詰めて人数の手配、工事の進捗差配、材料、道具、食事その他一切の抜かりのない計画、手配、それに隣接の黒川組、板木組、井手野組、切木組、入野組にまで加勢を受けて、人夫の数少ない時でも五百人、多いときは千人の人数を駆使して、長さ二〇〇m巾三〇mの石垣大堤防を築き あげたのは、約五十日かけて三月二十日でした。僅かの期間にこれだけの仕事を、よくぞ仕上げたものと驚嘆させられます。

二、宝永五戌子正月。唐津から係役人が出張してきて、堤・いぜきや、水路その他附属設備の工事を終わり、検地まで済して三月二十九日唐津へ引き揚げられました。

〇検地の結果

田 廿壱町八反参畝拾壱歩半

畑 壱反九畝九歩

できていました。

この田・畑が耕作されて、米・麦を生産されるまでには、尚続けて管理熟成の数年間が必要でしょうが、遠浅の海が魚貝ならぬ主食生産地に変貌する日が楽しみです。

(宝永六・七年正徳元年過ぎて…)

(2)入植・移民

イ、正徳二年

内野村勘七・同村与四兵衛・同村藤太夫・同村儀右衛門が家族と共に入植を願い出て、

一人に付米三俵を三ヶ年据え置きで貸与され、家屋は四軒分必要なだけ藩林から払い下げ、また縄三十束かや六十駄を給与されました。

ロ、正徳三年 花房村勘右衛門

ハ、正徳六年 内野村角兵衛 畑津浦惣兵衛

ニ、享保三年 清水村市介 煤屋村三五郎

(3)区民の感謝

イ、馬蛤潟の民風

馬蛤潟新田に希望入植した人は享保三年まで、九家族しか記録にありませんが、松浦拾風土記(文化年間(一八〇四-一八一七)作といわれる)の唐津領諸寄高には、馬蛤潟新田の名が既に出ており、

田畑高 四百九十七石九斗一升 古高なし

畝数 二十二町九畝二十五歩半

石盛田 二石三斗五升より八斗迄

畑 三斗四升より二斗迄 

とあります。開闢(かいびゃく)以来(ようや)く百年たったばかりで、同じ組内の他の村に比べて上位にあることは、地の利のよさにもありましょうが、働き者揃いであり研究的な経営態度であること等が、その原因ではないかと思います。

それと祖先崇拝の美俗がある事を特記せねばなりません。例証してみます。

ロ、馬蛤潟新田二百年記念祭執行

 新田干拓工事が始められてから二百年にあたる明治三十八年の十二月に、当時の藩主土井周防盛利益公の墓前に参拝し、大堤防の守護神竜神社の大改修、神前感謝祈願祭 来賓招待感謝大宴会、二百年祭記念建立等の行事が行われました。紀元二〇〇六年は三百年にあたります。

ハ、通称ひげいも祭り

毎年定日旧正月元日、区内全戸より一名づつ畑津田嶋神社に集合。神前に豊作の感謝と祈願の拝礼の後、当番の用意した神前の神飯ごくうさまとひげのついたままのいもを小皿に分けた上に、お神酒をかけて指を使ってかきこむ。小皿というのは元治元年の銘がついた専用のものが◎枚、かねては神社総代の家に保存されています。その後全員で盛大に直会。

この祭りの起こりは、大堤防エ亊の時は真冬の厳寒時、海水の干潮時を狙った工事であれば、夜間でも強行されるのが常のこと、里藷のひげなど丁寧に取るひまなどなかったであろう、寒いときは酒で暖を取るのが一番よい、しかし飯と酒と別にやる時間はとても得られない、飯お菜酒を一緒にやって当時のごくろうを偲ぶということからでした。

〇力武新田沿革(授産舎搦)

寬政年間(一七八九-一八〇〇)唐津藩主水野佐近将監(さこんしょうげん)(ただ)(かね)公干拓普請を思召立たれ、畑川内組辻村深浦地先より黒川組煤屋村(うし)()()地先を結ぶ海の中に石積堤防を築き十数町歩の干拓を計画、近郷近在の各組の人々の加勢を受け工事に着手されたが、海水は生きもので一日二回の干満と、風雨冬季は北西の季節風に吹きつけられ経験も浅い海中のエ事は難工事で予定通り進展することなく一時中止となりました。

嘉永年間(一八五〇)藩主小笠原佐渡守長國公は肥前佐嘉藩に援助を乞い、当時有明方面に干拓工事の権威を誇る授産舎組を招き工事続行順調よく進み後僅かという折、世は一変し徳川一五代将軍慶喜公大政奉還、明治天皇御践祥、明治二年唐津藩主小笠原長國公子爵位を賜り、唐津藩令となり明治四年九用伊萬里県に併合、同年十一月十四日東京に引揚げ殿様という主従関係もなくなり新田工事も中止打切となりました。

明治九年松浦郡山代郷の力武善七新田再工事を申請し許可を受け、樋門を堤防の北と南に設置し一番難しい汐止工事が地元馬蛤潟、煤屋、多数の人夫の見守る中九十数年を経て出来上がったのであります。

明治二十二年(一八八九)煤屋村灰ノ浦新田下約五町歩を埋立耕地整備に依る改修が施行されて稲作試作が行われたが低地と降雨による冠水、汐分多量のため収量なく放任状態となりました。

明治二十九年九月吉日、新田堤防上に力武善七八大龍王(新田守護神)を祀る。

明治三十年、伊萬里町梅屋(屋号)今井定治郎新田関係全般を力武善七より譲受け所有者となり山口助太郎一家を入植させ新田関係全般の管理を一任事務所に住居を与えました。

昭和十八年、梅屋今井富蔵新田関係及び殿ノ浦山林を維持困難のため煤屋村並に馬蛤潟村に売却、之より煤屋、馬蛤潟の両村共有地となる。堤防多年の歳月による老朽化甚しく煤屋、馬蛤潟での維持困難の極に至る(堤防漏水のため)

昭和三十三年四月一日、海岸保全国指定区域(五五三m)。

昭和三十六年、五ケ年工事県営事業として堤防補強工事採択。

昭和四十一年三月末日、堤防補強工事完成漏水皆無となる。当時は食糧難という時代で堤防も完全に補強になった新田の汐遊地を干拓して食糧増産の計画案が出される。

昭和四十二年三月十八日、馬蛤潟力武新田食糧増産目的として汐遊地約十六町歩を県営補助干拓水田化の採択申請。

昭和四十二年六月七日、馬蛤潟力武新田県営補助干拓採択認可通知。

昭和四十二年六月二十三日、馬蛤潟干拓県営補助干拓採択同意書提出(関係者煤屋三十名、馬蛤潟二十三名合計五十三名。

昭和四十二年九月十九日、馬蛤潟干拓県営補助干拓採拓決定、同日県営補助干拓事業着工。 昭和四十三年十月一日、力武新田関係所有権移転。

昭和四十六年三月三十一日、馬蛤潟干拓県営補助干拓事業完了、全面積十五・八一ha、農地一二・二四ha、其の他三・五七ha。

昭和四十八年十月十一日、馬蛤潟干拓売渡以来契約書、県→市。

昭和四十八年十月二十七日、馬蛤潟干拓売渡予約書交付。

昭和四十八年十一月二日、馬蛤潟干拓売渡通知書交付。

昭和四十八年十一月五日、馬蛤潟干拓造成地分筆登記。

昭和四十八年十二月二十八日、馬蛤潟干拓売渡収入金納付契約書、県→市。

昭和四十九年一月十日、馬蛤潟干拓売渡収入金納付契約書、市→県。

昭和四十九年一月二十二日、馬蛤潟干拓所有権移転登記。

昭和五十二年六月十五日、馬蛤潟干拓へ水稲作付取止めの連絡を受ける。

昭和五十三年二月二十八日、馬蛤潟干拓畑地利用説明会、於煤屋公民館、関係者五十三名全員。

昭和五十三年八月四日、馬蛤潟干拓畑作安定特別対策事業説明会、於伊万里農林事務所、昭和五十四年より三ケ年計画

昭和五十三年十二月十三日、馬蛤潟干拓畑作安定特別対策事業試作圃場造成地地割測量、波多津町株式会社市丸組。

昭和五十四年二月二十五日、馬蛤潟干拓畑作安定特別対策事業試作地一号より十号まで籤引により割当。

昭和五十四年二月二十六日、馬始潟干拓特別対策事業試作圃場視察、九州農政局、伊万里農林事務所。

昭和五十六年二月二十六日、会計検査。

昭和五十六年四月二十七日、馬蛤潟干拓構造改善畑地整備事業検討会、於伊万里市農協会館。

昭和五十六年九月十二日、香月熊雄佐賀県知事馬蛤潟干拓視察。

昭和五十六年十一月十六日、馬蛤潟干拓貯水池払下について伊万里農林事務所へ陳情。 昭和五十七年二月三日、馬蛤潟地区畑作安定特別対策事業計画三ヵ年終了。

昭和五十七年八月三十日、県農業振興課他馬蛤潟干拓視察。

昭和五十七年九月二十五日、馬蛤潟干拓新農構事業土地改良亊業公告。

昭和五十七年十月十七日、土地改良事業施行権利者同意書捺印書類作成。

昭和五十八年一月十日、馬蛤潟干拓波多津西部地区地区再編農業構造改善事業馬蛤潟干拓市営土地改良事業起工式、午前十時於現地。

昭和五十八年五月二十七日、波多津西部地区再編農業構造改善事業馬蛤潟干拓市営土地改良事業昭和五十八年度事業入札会、落札市丸組、工事期間昭和五十九年二月二十八日迄。

昭和四十四年四月吉日。堤塘改修記念碑建立、昭和三十六年より昭和四十年まで海岸保全事業堤防補強全面被覆エパラペツトエ樋門改修二ヶ所、門扉取替二ヶ所、盛土全被覆工五七二米、内堤工三七九、三米の竣工を記念して煤屋、馬蛤潟新田関係者一同により建立する、碑文は山口正次伊万里市長の書、石工内野小杉辰勇

昭和六十二年十二月二十一日、個人配分登記終了。

第二節 漁業

一、唐津藩時代の波多津の漁業

唐津藩における漁業は海の条件に恵まれて盛んでした。魚類・(あわび)栄螺(さざえ)(くじら)・塩は藩財政にとって重要な位置を占めていました。文化十四年(一八一七)当時、唐津藩は表高こそ六万石でしたが、農業産力も高いうえに、(はぜ)(かみ)綿(わた)石炭(せきたん)などの生産もすすみ、また、毎年(くじら)が三、四十頭、(まぐろ)が一(あみ)三千本もとれるほどでありました。このような点から漁業全般に加わる運上(うんじょう)(ぎん)は漁民の生活を圧迫したほどでありました。

水野、小笠原時代の唐津藩の浦は数多くありました。その中に畑津、黒川の両浦がありました。

「唐津市史」によると、波多津の浦にはつぎのような網がありました。

畑津……鰯網、四人引網、いか網、生海鼠引網、◎網、小諸漁網

寛政元年(一七八九)の唐津藩の総瀬網数は四三九帖、天保九年(一八三八)には五一九帖でありました。寛政五年(一七九三)の畑津浦には船数が五拾弐艘でありました。これらを他の史料によってみると、

畑津浦

一、銀六拾四匁八分 鰯網九帖        一、同拾匁 但鉾共に ◎小河岸網壱帖

一、同拾弐匁    四人引網弐帖      一、同四匁      釣船壱艘

一、同四匁     烏賊弐帖        一、同八匁      ◎網壱帖

一、同拾七匁五分  海鼠引船三十五艘    一、同四匁五分    底引網三帖

一、同弐匁五分   ◎網壱帖        一、同七匁五分    同網五帖

一、同拾匁     小諸漁網壱帖      一、同六匁四分    投網弐帖

一、同弐匁五分   ◎網壱帖        一、同拾匁      諸肴旅出運上

 〆百六拾三匁七分

こうした藩内各浦運上◎計が、銀百五貫七拾五匁三分壱厘に達し、そのうち黒川、畑津両浦の占める地位は極めて小さく、僅か〇・二%であったといいます。

なお、これら運上のうち、網運上は一帖につき何匁と規定され(釣漁は一人当りもしくは、一艘当り、鉾は一本につき、生活鼠引、長縄などは船数について賦課)、漁獲物に対しては、「諸肴分一」税が課せられた。「諸肴分一」とは、「鰯網入候肴、何品にも而も拾歩一」とか「鮪網に入候肴、何によらず三分一」などと現物もしくは売上代金をもって上納するものでした。さらにこのほか、「諸肴他所出した運上」があり、「大鯖百には付銀三分、小鯖弐分」、「鰤拾匁、鰯壱石に三分」などと規定されていましたが、のち実際には請負運上(定額)にしたようでした。

ところでこれら漁獲物のうち生海鼠については、これを煎海鼠として、干鮑などと共に長崎奉行所および藩の統制のもとに各浦の請負高制となりました。さきの史料(安政二卯年) によると、畑津浦千六百五拾六斤となっています。

畑津、黒川両津は、その地理的位置から地先海面は狭く、漁場には恵まれていませんでした。従って漁民は平戸領海へも出漁せねばならなかったようです。

二、波多津の漁業組合の沿革

(1) 位置

波多津漁業組合は、佐賀県北部の波の荒い玄海灘の奥湾のいろは島が点在する波靜かな景勝の地伊万里湾の一角にあります。前方には、長崎県福島があります。働く漁場の少ない漁港であります。

明治時代の漁民は、半農、半漁で生計をたてていました。水田は少なく、畑に麦、芋を栽培していました。漁業は一t未満の和船で底引網という小さな網で漁をしてきました。明治の時代は、買う網がなくて手の揃った漁家では、麻糸で網をすき、大きな片ロ鰮等を網にささせて、少量の漁をして、その鰮と農家で米に替えていました。

明治四十年頃になって、日本の漁業者は、組合の必要さを認識し、波多津の漁民も明治四十五年二月組合を設立しました。設立発起人酒谷弥市。この人の名義で登録され同年三月初めて漁業組合が誕生しました。

(2)設立登記 設立発起人 郡会議員酒谷弥市

(3)歴代組合長名と在任期間

   初代   塚部 常太郎   明治四十五年三月から大正七年三月

二代   松尾 誠一郎   大正七年四月から  昭和二年三月

三代   古崎定治   昭和二年四月から  昭和八年三月

四代    池田佐市   昭和八年四月から  昭和十六年七月

五代   塚部鹿造   昭和十六年八月から 昭和二十二年四月

六代    塚本豊治   昭和二十二年五月から昭和二十九年四月

七代   田中弥作   昭和二十九年五月から昭和三十七年六月

八代   塚部茂助   昭和三十七年七月から昭和三十九年五月

九代   橋ロ 政治郎   昭和三十九年六月から昭和四十二年五月

十代   水尾 今朝治   昭和四十二年六月から昭和四十九年四月

十一代  橋ロ 政治郎   昭和四十九年五月から昭和六十年四月

十二代  松本仁   昭和六十年五月から 平成四年四月

十三代  大石嘉一   平成四年五月から現在

三、波多津の初期の漁業

明治四十五年頃に、広島県や岡山県に綿糸の製網会社が出来て綿糸の網が自曲に購入できるようになり、漁民は一斉にその網を求めていろんな漁業ができるようになりました。初めは、マカセというコノシロを取る網が出来ました。元網と銘して、塚部常太郎、塚部紋兵衛の組ができました。続いて、新網といって青木安太郎、塚部豊造の組、酒谷弥市の組、松本今朝治の組。郷之浦組とでき、一時は八組もできました。浦中の人はそれぞれの組に分散してのり込み漁にでていました。冬期はコノシロ漁に出て、そのとれ高により網子たちに配分され、農寒の米と替えて生活をしていました。

明治三十八年、日露戦争後、松尾牛太郎は、千葉県にアジ、サバをとる巾着網の研究に行きました。

その後各網主はこの網をつくり明治四十年頃から朝鮮周辺に漁業に出るようになりました。当時漁船には機械はなく帆と櫓を頼りに出漁しました。始めは北朝鮮より魚群を追って釜山方面に下り、大同方面まで廻って半年間の漁期を終えて帰航しておりました。朝鮮のサバの群は巨大で、時には網を破ることもあるほどでした。こうして、大正五年頃までは大漁が続いたと言われていましたが、大正七年九月の台風時に出漁中、松本組が壱岐、対馬の中間でその台風に遇い五隻の船団はバラバラになり一隻の船網は対馬の東、博多沖に当たる大イワズ島に漂流しました。小舟三隻は転覆して船底にしがみつき救助を待ちました。一方の網船は漂流中に中支天津行きの輸送船に救助されて一カ月後に乗組員は送還されました。船と網は総て棄ててきました。不幸の中にも乗組員は全員無事でありました。

その後、朝鮮への出漁は取りやめになりました。昭和の漁民の目から見れば、昔の漁師の豪毅さに驚くばかりです。

また、その頃塚本留造は仲間を作って台湾のボラ網に行ったことがありましたが、台湾のボラ漁は、一匹が五kg、十kgの大物ばかりで網を破り、魚をとることができず、台湾のボラ網漁は失敗に終わりました。

大正十年頃から壱岐近海で真鰮がとれるようになり波多津の漁民の大半はこの漁に出るようになりました。十年ほどはこの鰛漁が続き波多津の漁師の家計をうるおしました。

昭和の初期になって対馬の近海に大アジがとれるようになりました。波多津にも片手廻し巾着網ができました。昭和三年にできた初船可丸一号は塚本豊次、青木庄三郎の共同船で、網子は近親者三十人位の乗り組みでありました。その頃対馬は島根、山口、福岡、長崎の巾着船団の集まりの場でありました。これら船団の中で波多津の可丸の漁獲はいつも上位で、優勝旗をもらうこともありました。

そして漁が終わって可丸が波多津の港に入港するときは、大漁旗をなびかせて接岸し、それは勇壮なものでありました。接岸と同時に四斗樽の鏡割りをして出迎えの村人たちにも酒をふるまっていました。こうして、可丸の名は各方面に知られました。

可丸進水二年後に松栄丸(酒谷栄太郎、松尾三次組)ができ、可丸とともに漁ができていましたが松栄丸は不運にも昭和五年秋の台風のおりに対馬の港の入口に座礁して、船網共に揚がりませんでした。その後対馬の漁も下火となりました。

昭和七年頃から伊万里湾に片ロ鰮が大量にとれるようになりました。波多津は長崎側の要請を受け、初めに船漕網仲間が福島に一統、松浦今福に一統、共同で事業を始めました。盛期の昭和十年頃は長崎県の要請も増えて、鷹島の殿の浦、福島の鍋の串、今福新網と網数も多くなりました。波多津湾の朝はいわし船が旗を上げて廻り、海岸の製造場は、煮干しいわしで足のふみ場もないほど活気に満ちていました。玄海漁連の煮干入札会では、その頃高串、波多津と最高の生産高を誇っていました。

しかし、昭和三十年頃から潮流の関係で伊万里湾の片ロ鰮も少なくなり、長崎側との共同の網も次々と解散するようになりました。そして、長崎県側との共同巾着網は昭和四十六年に今福町滑栄と波多津船漕組との解散が最後でありました。その後、波多津の漁民はエビ曳網、船曳、延縄等と個人操業の漁業に変わりました。

この間、昭和三十年代に大分県波多江に真珠養殖の研修に行き、組合員全員真珠母貝の養殖を十年ほどやりました。でも母貝では成功せず真珠玉入れに切り替えた者は長く続きました。しかし、近年公害で貝の育ちが悪くなり昭和六十年までには、個々にやめて鯛やハマチの養殖に変わりました。この養殖魚はどこまでも活魚で運送しますので大きな公害さえ出なければ有望とみれらています。

四、波多津の延縄漁業

明治三十年頃から、綿糸がないときは麻をより合わせて手造りの糸で延縄を作り鯛やチヌ、ブリ、カレイ、ゴチ、アナゴ等をとっていました。伊万里湾内外を櫓舟で操業し、松浦市今福の市場の下には二十隻ぐらいの波多津の舟が何日も泊り込んで仕事をしていました。

大正五年頃から電気着火小型発動機が出回るようになって、波多津でも初めて漁船に機械を備えるようになりました。最初は塚部伊平の田島丸(二馬力半)でした。それから清栄丸、喜漁丸と機械化が進み延縄全船が機械を備えつけるようになりました。その後、船も機械も拡大し昭和四十年頃は漁場も長崎県沖合や壱岐・対馬周辺を主漁場として操業するようになりました。そこでは主にフグ、アマ鯛の漁をしました。その後、明光丸(田中保、田中作治)の船や宝栄丸が出来て同海域での漁がされてきました。漁法でもこれら大型船の活躍が期待されていましたが全船とも長く続きませんでした。今では明光丸一隻が九州南方海上、沖縄周辺の海域で操業を続けています。

エビ漕ぎ網は二人以内でも操業ができる網です。昭和四十年頃は同業者の船が四十隻もいて、伊万里湾を主に、玄海海域までも操業していました。ところが伊万里湾開発のために漁業権を失い、いまでは七人が残って操業しています。

船漕網は、いりこ生産の網です。最盛期は、二十統もおり、長崎県、福島、松浦、高島の漁協等両県立合いの入漁をして操業をしました。一時は波多津は漁協第一の水揚げもありました。だが、漁業権消滅とともに他県への入漁も拒否されまして、操業の場がなくなり漁業者の大半が開発事業の方へ転業しました。残る者は、船漕きとしては三ヵ月位の操業の場 しかなく、他は敷網に転業して玄海の漁場で操業しています。

ナマコは、昔から地元海岸に繁殖している魚類です。組合でも、山石等を投げ入れてナマコの養殖をして、年に一度年末に採捕して年越しの金として期待してきました。しかし、近年公害の為にナマコの種も絶えてしまいました。

この頃、赤潮に関心をもつようになりました。そこで赤潮を恐れない漁業として車エビの養殖に目を向けました。ところが、この事業には新沿岸構造改善事業の認可が必要です。この認可を得るまでは、県や市の援助と多くの人々の協力を得ました。そして、町内煤屋浦に車エビの養殖場を新設しました。そして、平成元年までに四回の水揚げをしました。池面積二四三〇〇平方米、工事費二億四〇〇万円、昭和六十年に追加した池面積五〇〇平方米、追加工事費二四〇〇万円、池の名称を「伊万里車エビセンター」としました。

現在組合長 松本仁 養殖理事長 大石嘉一 養殖場長 塚本久雄

五、波多津漁港改修工事

波多津町漁協の百年の歴史の中で特記すべき事業に波多津漁港の改修工事があります。田中角栄首相のとき日本列島改善論がでてきました。波多津漁港も県の説明会を受け、指導をえて昭和四十年漁港改修にのり出しました。港を改修して、それに道路をのせるという県の説明で協議を続けました。地元負担金の問題で話は進みませんでしたが、総会の賛同をえて工事にふみきりました。漁港工事の認可は県で一つの組合しかできぬことになっていました。波多津漁協と同時に唐房漁協も工事の申請をしていました。どちらかが切られることになりました。そこで陳情合戦となりました。波多津は当時保利代議士や館林農林政務次官に陳情をしました。陳情団は、県の係官、市長代表、区代表、地元市会議員、漁業組員、漁業組合長、外役員等で構成されました。その結果昭和四十年認可となり、四十一年七月事業着工の運びとなりました。その後二十三年の歳月を経てやがて完成の見通しであります。

この事業によって漁民はどんな台風にも耐え得る漁業基地を持つことができます。海岸道路、荷揚げ場の建設により浦集落の全容が一変します。また、今後の集落の発展と観光の両面から期待するところ多しといえます。

昭和四十年着工から平成二年までの事業費

第三次  昭和四十年  ―  昭和四十三年  二九九〇〇(千円)

第四次  昭和四十四年 ―  昭和四十七年  一一〇九〇〇(千円)

第五次  昭和四十八年 ―  昭和五十一年  一三九〇〇〇(千円)

第六次  昭和五十二年 ―  昭和五十六年  一三九〇〇〇(千円)

第七次  昭和五十七年 ―  昭和六十一年  一〇一一〇〇〇(千円)

第八次  昭和六十二年 ―  平成二年    五〇〇〇〇〇(千円)

漁港改修事業の外にできた補助事業

昭和五十年 第二次沿岸漁業改造構造改善事業

漁協事務所 水産物荷さばき施設

事業費 一五,二八一,〇〇〇円

昭和五十五年第二次沿岸補足整備事業

船揚場

事業費 一〇,〇一五,〇〇〇円

六、釣漁

古橋キヨエ(浦区)

「太かつん上がって来よるごたるばい。」……と夫のはずんだ声。漁師として生き五十余年、大小の見分けは手ごたえで分かるのでしょう。延縄操り機がスリップしながら魚を揚げる。十五分もすれば、五m先の海面に空気を腹いっぱい吸って仰向けにぽっかりと巨体が浮かぶ。三十kg以上はあると夫。枝糸を手に取って、クエに合わせて手元に引き寄せ大たぶ(たも)で掬い船内に引き上げる。そこで、ひと息、夫婦(ふたり)の笑顔、最高の笑みである。たもに入らない大きなクエは、顎の所に手を入れ、片手でロ元に魚鈎を打ち入れて引き上げ、横に寝かせ、空気を抜く、それは魚が生きるために顎鰭の下に空気針を突き刺す。シューと音を立てて空気が抜け、お腹がひっこむ。蜑の言葉で(胃を漬すと言う)釣針を呑み込んだ魚は死ぬので、氷室に埋める。一般に三kg―四十kgまで釣れる。

壱岐島の市場で競る魚価は、十kg―二十kgまでが高値で七千円から一万円の高価、氷魚は少々安く競られる。

漁法は、壱岐港から夜明と共に漁場に出漁、長年の経験で海底まで知りつくしている。でも、今は魚群探知機、数年前からはプロクター機と、あらゆる機器を備えて、それこそ海底の岩礁の凹凸まではっきりと映る。ことにクエは荒い岩礁に住むので、その漁場を何回も操業するのです。

昔は北山から()を購入して縒り、手作りの延縄を作っていました。その後は、綿ロープからクレモナのロープで、本縄は直径四mmから五mm、枝糸ナイロン八十五~一〇五号、釣針は二十~二十五号、縄の長さが四〇〇m、枝糸二(ひろ)(約三m)を、ひとこしき(ひと鉢)に丸く操り入れ釣針は三十五本、餌は鮪の幼魚(呼び名はヅンコ)大鯖ぐらいを三つ切り、ひと針に一個掛けてはえます。一日に十五コシキ操業して、午後二時頃終わり壱岐入港して明日の用意に縄のもつれをといて元どおりにするには夕方までかかります。

以上は、活き中鯖の一匹掛けでしたが、今は餌にするほど鯖が釣れないのです。

昔は、伊万里湾を出れば操業できたのに、今は壱岐周辺、二神島、五島列島、対馬方面の沿岸が主な漁場となっています。魚減少のためなのです。長崎の大瀬戸方面からも五隻漁にきています。私達はひと航海に十日ぐらい渡り蜑として滞在します。

昭和三十三年頃は、十二月からは対馬の寒の岩石鳥賊(スルメ鳥賊)釣り一ヵ月渡り滞在して、暮れには帰港し、翌年五ヶ日を過ごして出漁し、一月中操業して帰港しました。

乾スルメ加工業者に生一匹、二円~四円、私が行った四十二年頃は一匹、二拾円となって買い取られました。今は、北海道の大型鳥賊船が三日三晩かけて壱岐の島へ来て市場競りをしています。壱岐~対馬沿岸の操業です。

今は、一般漁業者は浅蜊掘り、縄天草取り、穴子縄、鱸縄、鯛の一本釣り、黒虫の鯛縄、イサキ釣り、海老漕ぎ網、鰯網、十五年程前は、秋になると油イカの鯛縄を主にしていました。今は、長崎県側の意向で全面禁止になりました。波多津漁業者は少人数ながら、多類操業して暮らしています。

塚本留造(明治十年生まれ)延縄始めの頃は、釣針は自分流に焼き上げ、その釣針を見れば人の名前が分かったものだと古老が申していました。祖父は、あの有名な網師松尾丑太郎さんと大連に韓国人と三人で、櫓漕ぎ舟で一ヵ月もかけて行ったそうです。それから、台湾の高雄にも漁業振興のために西唐津の梶山さんと波多津の数人で渡航しています。この時は「鰡のからすみ作り」の先発隊として、大船に小舟を積んで行ったということです。

それ以後一度びは延縄ひと筋に操業しています。

第三節 林業

加川村長の先見と英断-原野に植林造成

波多津村は、もともと原野の面積が広く、各種採草地として利用される外は、雑草の生い茂った荒野が多かったのです。

明治四十年四月、加川公夫氏が村長に就任以来、波多津の原野と荒地を生かした森林造成により将来波多津の基本財政作りを村会議に提案されました。当時は、村財政の苦しい中でもあり反対者もありましたが、度重なる協議の結果、遂に村を挙げて植林事業に取り組むことになりました。

明治四十一年-県より造林適地・地質調査が行われました。明治四十二年七月-田代地区の国有林払い下げを、村会議において議決され、明治四十三年二月-田代地区の松苗植付けから始まり、大正二年七月-植林委員会発足、同年十一月-植林条例が制定実施されました。

国有林田代地区・板木地区の松の尾が先ず差出され、その後、各集落より差出されました。主として集落の共有地の原野を村有林造成のため差出して、基本財産ができました。適地を持たない集落は、資金を出貸して、その割合により基本財産ができて昭和の初期頃までに集落有又は個人有のものも加入して現在に至っています。村有林の各集落より差出された土地は、比較的条件の悪い所が多かったのですが、村当局の熱心な指導のもと村民の皆さんの努力と手入れにより見事に育成され、伐採の運びとなり、波多津中学校の新校舎建築には総て桧の木を提供されました。

当時は中学校校舎を桧の木御殿とも言われていました。

その後、公共事業の経費も充当されその恩恵は現在まで測りしれないものがあり、これ全く加川村長の先見英断と当時の村議-古河熊大郎氏を初めとして、歴代植林委員会各位の献身的実践と督励並に村民各位の努力のお陰によるもので銘記して深く感謝を捧げるものであります。

村有林育成事業により、村民の植林意欲は開眼され、更に拍車をかけたのは、農業における草刈りの必要がなくなったこともあり、なお、入合林野法の改正と集落共有地の個人別分割と、植付補助金制度により植林が盛んに行われるようになりました。現在では、殆んど原野・荒地は見られなくなりました。

村有林は、町村合併により全部を市有地とされましたが、その管理育成は町に委託され、伐採の時は、三割が管理委員託料とし、七割は地元の公共事業財源に充当予算化される事になっています。現在でも、私有林管理委員会の指導により、町民の方々の努力によって育成され続けています。

〇参 考

明治 四十年四月二十七日 加川公夫村長就任

〃 四十一年二月九日     県より造林適地調査

〃 四十二年二月二十八日 田代・中山地区調査

〃 四十二年四月     村議による地質調査

〃 四十二年六月四日   村有林造成のために 一金 五百円也 借入

〃 四十二年七月十一日  田代地区の国有林払下げ村議会に於て決定 

             当時村議 古河熊大郎氏

〃 四十三年二月三日   林有林松苗植付着手

〃 四十四年一月二十七日 田代国有地払い下げの書類熊本営林局に提出

大正  二年二月二十六日 板木地区剛里ヶ坂

 〃   二年七月     植林委員会発足(議員から)

〃   三年二月     第一回桧苗植付 八万三千本

期日不明          松苗植付 八千八百五十本