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第十章 集落史(筒井)


第十章 集落史(筒井)
(2021年11月12日更新)

筒井

集落の中央を曲がりくねって流れる行合野川の両岸に沿って田畑が開け、さらに東の加倉川の流域にも、西の後筒井川流域にも細長い耕地が三か所に開けています。耕地面積は波多津の東部で一番広く、農業の面では最も恵まれています。総面積は三・四㎢の集落です。

明治の初期に置かれた筒井・木場境のとんまつ(飛松(とびまつ))。分校跡地から曽畑式土器や、(すり)(いし)、石鏃等古代人の生活用具が発掘され古代人の住居遺跡と認められています。

一方、現筒井公民館の庭にある六地蔵をはじめ、境松墓地の六地蔵、イボ地蔵、石造文化等から考えても、筒井は古い時代から人が住みつき、この地方の先達的文化をもっていたのではないかと思われます。

筆者は幼い頃、むらの故老から遠い昔源頼光公が家来の渡辺綱と共にわが村にやってきて、館邸を築き、この地方一帯を平定して、また京都に帰っていかれたこと、大江山の鬼退治のこと、筒井順慶のこと、唐津かんねのとんち話などを聞いて胸を躍らせたものでした。

一、城後城とその周辺

この城の築城について松浦拾風土記には、六十二代村上天皇の代天暦三年(九四九)岡本山代守是吉(北面百騎司)と山上十五左衛門(藤原鎌足の孫で北面の組頭五人の中の一人) が、城後城を開いたとありますが具体的なことはわかりません。尚、城のある地名が上戸(じょご)(へい)平だから、上古城と書いた方がよくはないかと言う説もあります。

註 松浦古事記その他郷土資料について、編著者の吉村氏は「我松浦の地は、史跡・伝説の地であり、又名勝詩歌の国であるけれども、之を伝える古書、古文書の遣存するも のは甚だ少ない。遥か後人の作に成る松浦古事記・松浦拾風土記・松浦記集成・その他二・三記録の残存するものでも、虚構妄誕採るに足らないものが多くある。然し、これらを措いて松浦史研究の資料で外に残存するものはない」と苦しい胸中を述べておられます。読者としても心して読んでください。

波多津の独自資料は現物の残存するものの外、書類資料に至っては、明治以降でも極稀な有様で、郷土の実態を把握できなかったことは、慚愧の至りに堪えません。

私は少年時代に祖父から聞かされた頼光と綱の武勇談や筒井順慶の出世物語りの感動や夢を、祖父の年をはるかに越したいま、なぜか思い出しています。

松浦源氏の遠祖源頼光は正暦年間(九九〇年頃)肥前守に任ぜられて当国に下り、渡辺源吾綱も源頼光に従って松浦の地に下り筒井村に屋敷を構えたとあります。主従は満三か年ほどこの地に住んで、後年松浦党発展の基礎を築いております。近年渡辺綱の筒井居住に疑問の説がでていますので住民としても今後注目研究の必要があります。

後三条天皇延久元年(一〇六九)渡辺綱の曽孫源新太郎久は、肥前国宇野御厨荘の検校(けんぎょう)となり今福の加治屋城に居を構えました。ここで久ははじめて松浦を称え、松浦源氏の祖となり、上・下松浦の広大な領土をもつようになりました。

次男の(たもつ)を岸岳に分家させ、同地に築城して波多氏を名乗り、周辺警備の任にあたらせました。家臣岡本山代守を筒井にやり天暦三年上戸に築城し、東松浦半島海岸の警備の拠点とし、外敵襲来に備えました。上戸城に登ると、福島・鷹島まで一望できます。

城の後は断崖絶壁で最良の地です。家臣に鶴田太郎左衛門、田原三太夫、家老松尾左近太夫がいました。鶴田太郎左衛門の墓は庚神墓地にあり供養は現在鶴田勝がしています。現在筒井の田原松尾の祖先とは判らない。庚神墓地のすぐ下の広い畑を上戸城の寺跡といいます。もとは茅葺きの祠があり阿弥陀如来像二基が祀ってありました。現在はすぐ下の道路脇に岸岳末孫の五輪塔と共に安置されています。寺跡に小さな祠を建て田原藤雄が祀っていま す。

そこから一〇〇m位川下に上戸城の守護神が祀ってあります。これが田嶋神社です。

参道の頂上に順慶松がありました。大正十年村道改修のとき、木挽の田中鹿造翁が切り倒しました。その松皮を家宝として保存していましたが、家屋改築のおり、なくなったといい伝えられています。木の周り一丈をこす松であったといいます。

順慶は俗名を丈之助といっていました。才知万能に富み家貧しくとも筒井山代守の落胤でありまして、土民耕作に陥ってはいましたが、

「お願いします。暫くをください。都にのぼって家名を興し、孝節をつくしたいと思います。」と両親の許しをえて十八歳のとき筒井を後にしたということです。順慶松はその旅立ちのおりに植えた松といわれています。後に大和国郡山の十八万石の城主となりました。豊臣家の家臣石田、福島、加藤、小西、蜂須賀等数多くの武将の中の一人として信望があったといわれています。

田嶋神社の第一の鳥居のすぐ左横に重さ一〇〇kgを越える丸い力石(ちからいし)があります。明治・ 大正・昭和を通じてこの力石をあげた者は田中元四郎翁一人というのです。元四郎翁には北波多の恵木に伯母がいました。その伯母の葬式に米俵一俵をかついで行ったほどの力持でありました。昭和十六年六月八十四歳で亡くなりました。

第二の鳥居を登り上がったところの左・右に雌雄の駒獅子が建ててあります。これの材石は筒井の高岳の石で部落民総出で狭い山道を運んだといわれます。明治三十二年二月に建立されました。石工は東松浦郡値賀河内の徳永利平親子となっています。

拝殿横の小高い所に「土佐殿の松」がありました。大正十五年の台風で倒れ、幹は残りました。この幹に残った腐蝕土は菊栽培の培土に使われているようです。「筒井に土佐殿という人あり」と記されていますが、上戸城の家臣だったのか、松浦残党だったのか判りません。木の周りは一丈余りあったといわれています。

拝殿には数多くの古い絵が奉納されています。里見八犬伝、川中島の戦、壇の浦の合戦、熊谷次郎、敦盛、後醍醐天皇と名和長利、仁谷之四郎と亥獅子退治、神后皇后の朝鮮出征、織田信長と豊臣秀吉、桜井の役の楠木正成の親子の別れ等々です。村長麻生四郎の奉納された絵もあります。また、昭和十四年より筒井の小学生女子による御神楽舞が奉納されています。この行事は半世紀続いています。

二、青壮会

 筒井には青壮会という三十五歳以下の会があります。大正二年に発足し以来七十有余年続いています。毎年、盆、正月に総会を開き、部落の発展に貢献しています。行事もいくつかもっております。その一つとして青壮会主催で毎年三月の彼岸に敬老会・物故会員やこれまでの戦で亡なった戦死者の慰霊祭を実施します。本年で七十七回目に当たります。一般に老人軽視や戦死者の遺族に対する感謝の気持ちが薄らいでいくとき青壮会によって漸く保持されている始末です。

公民館広場に昭和二十九年、青壮会の資金により忠霊碑が建てられました。古川美年が会長のときでした。青壮会の創設者はいまは亡き松尾茂資で、現在は会員三十二名、宮崎智が会長を勤めています。

三、子供会

子供会には、幼稚園、小学生、中学生が入り三十年前に結成されました。子供会育成会長の指導で毎月一回、例会をもっています。昭和五十四年には、この子供会の健全育成が認められて全国表彰の栄に輝いています。行事としては、十月の亥の子祭りがあります。中学生以下の男子が、初息子の生まれた家をまわって亥の子石を句説きながら搗きます。搗き終わると接待を受け、その家の初息子の無病息災を祈願します。子供たちにとって楽しい行事です。

四、みかん園造成

昭和三十五年、第一次農業改善事業が行われました。みかん園造成です。総事業費七千五百万円。

配管施設や農道の建設工事が行われ、昭和三十九年に完成しました。そのお陰で昭和五十年頃には米代金を越す収入が得られるようになりました。現在では量より質に変わり斜陽化しつつあります。それに代わって、ハウス蜜柑、施設キュウリ等に切りかえられています。

五、行政と小学校設立

行政面では村長麻生四郎、助役古川団兵衛、村議古川音造、奈良崎儀三郎、市丸広吉、市議奈良崎儀三郎等が村や市の発展に貢献されました。

学校関係では、市制発足と同時に統合が計画され昭和三十年四月に波多津東部の大平小学校と波多津小学校筒井分校が統合されました。当時の大平小学校長藤田平太、伊万里市教育委員松尾茂資の尽力と校区民の協力によって、一時は難しいと思われた統合が実現しました。校名は伊万里市立波多津東小学校。

その後、校区内に幼稚園設立の話が浮上してきました。教育は小学校からでは最早おそいという観点から、当時の市長山口正次の英断により伊万里市立波多津東幼稚園が開園されました。お陰で都市並みの幼児教育ができるようになりました。

六、橋について

筒井を流れている川は曲折が多く、従って橋が何箇所も必要でした。大正十五年の村道改修以前は、原田川、下川、田島川、加倉川を渡るのに橋もなく、いずれも飛石伝いに渡っていました。その後徐々に橋が出来ました。石工森野広右エ門によって石橋ができました。当時はすべて人力によりましたから苦労の程が偲ばれます。昭和三十年頃まで村道が幹線道路でありました。東西を結ぶ道路は鶴掛峠をはさんで険しい山道で、自動車は勿論、自転車も使えぬ細い山道でした。役場に行くにも、学校に行くにも、会合に行くにも徒歩で小一時間は要していました。昭和三十九年に、当時の参議院議員杉原荒太、山口正次市長の尽力によって国道に昇格、以来、バス、車等自由に通行できるようになり、最早僻地ではなくなりました。

七、公民館

始めの建物は昭和六年に建てられました。当時の建物としてはユニークなもので、廻り舞台を仕かけてありました。その頃は年に一回芝居が興行されて、近郷近在の人々の楽しみの場でもありました。公民館のすぐ横に六地蔵((弘治三年銘))があります。青年団の主催で盆の二十四日の晩地蔵祭りが行われます。地蔵祭りでは子供会、青年団、婦人会による盆踊りや、ビールの早飲み競争など盛り沢山の催物があります。

八,お諏訪さん参り

明治・大正・昭和の初期まで、最大の慰安旅行は浜崎のお諏訪様参りでした。苗代の籾蒔も終わった農繁期前、マムシにかまれないようにとお諏訪様に祈願に行っていました。約二十kmの山道を歩いて一日がかりでお参りをしていました。その日は朝早くから弁当を作り、老若男女そろって出発していました。女は着物、下駄を風呂敷に包み、草履をはいて、世間話をしながら熊ノ原の魚屋まで歩いていき、そこの魚屋で昼食をとっていました。女性はそこでお詣り着物に着替え下駄をはいて、大手ロの駅から十五銭の切符を買って軌道に乗って浜崎まで行っていました。木製の松浦橋を通る頃から疲れも忘れ、みんなの心は弾んだものでした。

二軒茶屋で松原おこしを買ったり、浜崎けいらんを買ったりしたものでした。当時の小遣いは、普通七十銭、多く持っている人で一円ぐらいでした。