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第五章 行政


第五章 行政
(2021年11月12日更新)

第五章 行政

 

第一節 大岳村誕生

明治二十二年四月市町村制実施ふるさとは初め大岳村と命名、初代村長田辺良寿氏で発足。

  役場開設に付届

当大岳村役場本日開設候間比段御届申し上げ候也

    西松浦郡大岳村長

      田辺良寿

 明治二十二年七月三十一日

佐賀県知事 石井邦〇殿

 

 村名大岳村が何に由来するものかわからないが、村内山また山の連なりだったから名付けられたものであろうか。村の区域に入ったのは木場・筒井・井野尾・田代・板木・津留•主屋・中山・畑津・内野・煤屋・馬蛤潟新田・辻の十三か村。それまでは「〇〇村(むら)」とよんでいたが、これからは「波多津村大字〇〇」とよぶようになりました。

 村役場の位置は、畑津集落通称谷口とよばれるいまは坂本久氏の屋敷になっている所だった。地籍面は大字辻字黒石一四五八番地。

 明治二十二年(一八八五)苛酷な大名政治の下で苦しんでいた頃は、考えることさえできなかったであろう自由と平等の明治の新政を迎え、更にこれからは隣集落どうしで村をなし自分たちが村長も選んでやっていけるというのだから、さぞかし資料も話題も豊富にあったろうに……、今は資料散逸、当時の状況が書けない。郷土の今日を築かれたご先祖に申し訳ないと思います。

 

第二節 村名改称「波多津村」となる

 

大岳村誕生後十二年目早くも村名改称のことが起こりました。

    村名変更申請

          西 松 浦 郡 大 岳 村

 今般波多津村と村名変更の件、村会に於て議決仕り候間

 別紙村会議決書謄本添付

   明治三十三年十二月十日

          西松浦郡大岳村長

             麻生 文七郎

  佐賀県知事 武内維積殿

 (添付書類)

 村名変更議案

 本村村名ヲ波多津村卜変更セントス

  理由

従来本村一帯ノ地ヲ畑津ト唱へシハ往古鬼子獄ノ城主波多親ガ本村海岸ヲ以テ其用港ニ充テタルニ起因スル称ニシテ往時波多津ノ文字ヲ用ヒシモ近世ニ至リ畑津ト略シ今襲用スル所ナリ然ルニ征韓ノ役親力罪ヲ豊公ニ得テ討滅セラルルヤ遁戮ノ残臣ハ離散シテ農トナリエト変シ多ク本村ニ占居シ現今住民ノ多数ハ親力遣臣ノ子孫ナルヲ以テ一般ニ波多津ナル名称ヲ追幕スルモノナリ加之本村ノ位置亦本郡南波多及東松浦郡北波多村ニ界シ一面海ニ沿スルヲ以テ地勢ニ則ルモ古来ノ伝称ハ本村最モ適当ナル称呼ナリトス反之現称大岳ハ町村制実施二際シ深ク考慮スル所ナク漫然下名セシモノニシテ固ヨリ本村二何等ノ縁故ナキハ論ヲ候タス郡内又大山大坪大川内大川等大字ヲ冠セル村名多数ナルト行書書体ヲ用フルトキハ大岡二酷似スルヲ以テ常二郵便物ノ紛錯ヲ生シ通信ノ敏活ヲ阻シ公私ノ利益ヲ害フコト少カラス社会ノ交通ハ日一日頻繁ヲ加フルノ今日隔靴掻痒ノ憾ナキ能ハサルナリ加フルニ往時藩政時代ニ在テハ本村沿岸一帯ノ水産ハ大イニ世ノ好評ヲ博シ就中海参ノ如キハ領主ヨリ幕府へノ献納品トシテ汎ク宇内ニ知ラレ其他各種ノ乾製魚類モ香味色澤ノ他二卓絶スルノ故ヲ以テ各地ニ歓迎サレ波多津海鼡波多津煮干鰛ノ名称ハ自然ノ商標トシテ市場ニ高位ヲ占メタリシガ地名ノ変更以来漸ク世人ノ疑惑ヲ買フニ至リ輓近著シク販路ヲセバ メ本村水産業ノ発展ト漁民ノ利益トヲ抑制スルノ実例少ナカラサルニ至レリ於是乎村名改称ノ必要ヲ感スルコト益深シトス

以上ノ理由ニ由リ村名ヲ変更シ従古伝来ノ慣称ヲ存続シ一方ニ於テハ通信ノ敏活ヲ図リ社会ノ交通ヲ円満ナラシメ併セテ産業ノ発展ヲ助長シ以テ本村ノ利福ヲ增進セントス之レ本案ヲ提出セシ所以ナリ

 明治三十三年十二月九日提出

       大 岳 村 長 麻生 四郎

 右村名ヲ波多津村卜変更ノ件可決候也

       大岳村会議長

 明治三十三年十二月九日

       大 岳 村 長 麻生 四郎

       同員 古河 昇次郎

             田中 定次郎

 理由は各方面にわたってよく考え及んである。村発足の当初にはこの深慮をめぐらす余裕がなかったのであろう。

 

 

〇村役場と新庁舎

明治三十七年には、村役場移転のことが起こっている。保存書類によれば

   役場位置変更認可稟請

本村役場ヲ移転セントスル 本村大字辻ハ原ト波多津浦ト称セシモ 明治九年土地調査ノ際大字辻ト合併ヲナシ今ハ 波多津浦名称ノ大字ナキモ世人称呼スルニ総テ波多津浦ト称ス戸数百五十余ニシテ村ノ中央ニ在リ 各大字二通行ノ便ヨク同浦民ハ総テ商業・漁業等ヲ営ミ 波多津全村ノ需要供給地ナリ 区裁判所出張所、郵便局等アリテ通信ノ便ハ無論 出張所ニ申請事件ニシテ 役場ニ就キ調査及ビ証明ヲ要スル人民ハ頗ル便利ヲ得ルヲ以テ 役場位置ノ変更ハ年来人民ノ切望スル所ナリ 故ニ村ノ便益ヲ図リ 大字辻又九百三十二番地ニ変更致シタク候条 御認可想成度、別紙村会議決書謄本本全村地図相添へ此段稟請候也

 明治三十七年六月二十六日

      西松浦郡波多津村長 麻生四郎

 佐賀県知事 香川輝殿

  (認可書)

 佐賀県指令第二七六二号

          西松浦郡波多津村

 明治三十七年六月二十六日波庶第五〇六号稟請村役場位置変更ノ件

 右昭和二十三年八月法律第七十七号第二条ニ依リ之ヲ認可ス

  但シ位置変更ノ上ハ其旨届ツベシ

 明治三十七年七月十二日   佐賀県知事 香川輝

 

 

〇村役場改築

 明治三十七年畑津集落から移転した村役場は、二十三年目の大正十五年五月に改築成り、その月十八日に落成式が挙げられた。式上工事報告に於て建築委員長辻治太郎氏が述べられた中から要点を摘録すると

今迄の村役場は郡内でも最低の建物だった。偶々不況の折ではあったが村内の世論一致して改築が決定した。

 昨年八月業者に頼んで設計してもらったら工事費総額一万四千八百六十余円と出たが、村民の負担を考え一部修正して一  万三千円に減額のうえ、村会で可決予算化した。しかし普通一般の入札方法では施工困難とみたので、各々専門的部分の競争入札の方法をとった。其の結果、地形工事二千二百五十円、木材の部四千五百二十円、木工の部千百九十八円、左官工事の部五百五十円、建具の部七百九十九円、錻力並びに塗装工事七百四十五円、瓦葺工事五百七十円、スレート百三十円、畳六十一円、合計一万八百二十三円で落札、それに基礎工事の松丸太材三百四十二本は村有林より間伐することとし、昨年十一月より着工本日全くその工を終えたものである。苦役延べ千三百人を要しました。

設備の概要

 本館二階建延九〇坪八合四勺  坪当り

 便所廊下   三坪二合五勺  工費 百八円強

 倉庫     六坪      人夫 十三人

  計 一〇〇坪    九勺

(原文のまま)役場の構、壮且つ美ならずと雖も質素堅牢その用を充すに於ては萬違算なきを信ず。

 

(なんと確信に満ちた簡潔の一文。干拓新地の軟弱地盤だが、基礎工事の松丸太三百数十本、尺角に近い御影石の二段重ね土台、六尺角の本柱、これらの材料の使われる工事現場を、建設委員として毎日監視した人にして初めて言える言葉か、畏敬を感ぜずにはおれない)

 

 この役場は、波多津村行政の中心拠点として、昭和二十九年三月三十一日まで、充分にその機能を果たした。四月一日からは伊万里市役所波多津支所兼波多津公民館として、引続き使用されても尚まだ堅牢を誇っていたが、別の地に公民館兼支所が建てられたので、四十八年四月一日をもって閉鎖され、先頃一般に払下げ売却された、敷地ともども。

 

第三節 町村合併で伊万里市となる

 

一、郡・町村制の変遷

 明治二十二年の町村制施行によって設置された町村は、伊万里町・牧島村・里川村・波多津村・南波多村・大川村・松浦村・大坪村・大川内村・二里村・東山代村・西山代村であった。その時は既に西松浦役所は設置されていた(明治十二年 ― 一八七九)。しかし大正十五年(一九二六)には郡役所は廃止となりました。

 

 牧島は昭和三年に、大坪村・大川内村は同十八年に伊万里町に合併、西山代村は山代町と改称され二町七か村になっています。

太平洋戦争の激化に伴い、県庁の出先機関として西松浦地方事務所が、昭和十七年に開設され、同三十年に改編されるまで県の地方行政を担当しました。

このような郡・町村の動きの中に合併は既に胚胎されていたといえるかもしれない。火をつけたのが「伊万里湾総合開発計画」。

 

 

〇町村合併を必要とする理由

 「地理的な隣接による交通・文化・経済・風俗等の密接不離の関係、殊に今般の伊万里湾の総合開発計画の推進については、関係地元が大同団結して政治的にも、財政的にも強化された自治体となることが必須先決の条件だ。そうなることは産業の振興、住民の共存共栄福祉の増進につながる。」またそれをめざしてがんばらなければならないということでありました。

 

二、経過

 正式な動きとしては二十九年一月四日、西松浦郡町村会・町村議長会合同協議会が第一回。二月八日の同会議で有田・大山・曲川がはずれ、残り二町七か村で町村合併研究協議会を発足した。二月十四日同常任委員会発足、十七日同総務委員会、同二十七日委員会総会開会、三月三日町村合併促進法による町村合併促進協議会発足。その後若干の委員会審議総会を経て、三月十二日各町村議会に於て「市町村の廃置分合について」の議決を終え

、十三日各町村長の調印〜「合併申請書」提出となった。

 かくて明治二十二年以来の波多津村政は昭和二十九年三月末をもってその幕を閉ざすこととなり、その日閉村式が行われました。

 明くる四月一日からは、新伊万里市波多津町としての第一歩が始まった。

 当時の村政執行部は、村長〜松尾加助氏、助役〜酒谷久雄氏、収入役〜金子禎助氏であった。

村議会議員は、議長〜古崎定治氏を含め次の十六氏だった。1松本勢一氏 2奈良崎儀三郎氏 3田中忠兵衛氏 4市丸亀次郎氏 5田中熊助氏 6川上勇三郎氏 7長谷川宝助氏 8前田友太郎氏 9田中惣四郎氏 10小杉定治氏 11金子末治郎氏 12吉田定兵衛氏 13古崎定治氏 14井手寅助氏 15田中松五郎氏 16酒谷徳兵衛氏(新市発足後一年間は市会議員―翌年改選)

 前記のうち酒谷助役、古崎議長、長谷川議員は合併研究協議会や、促進協議会の役員や委員をされました。

 

村民の合併賛成を取り付けるには、なにぶん超短期間のことだったので、執行部も議会もなかなか苦労の連続だったことと思う。

 「今まさに発車せんとする汽車に乗り遅れたら将来取り残されて後悔するは必定」との説得が、妙に印象深く今も忘れられない。

議会も村民も一様に危惧したことは「僻遠の地だから道路改修や、老朽小学校改築が遅らされるのでは」ないかということだった。それがどうなったかは町民がその目で確かめています。

それから半世紀!新しい世紀に向かうとき、伊万里市に、波多津町に栄光あれ…。

 

 

第四節 歴代村長・助役・収入役

 

01

02

03

 

 

第五節 波多津村村会議員名簿

 

 

 

 

 

 

 

0405

06

 

 

第六節 伊万里市会議員(波多津町)

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08

 

第七節 明治四十一年以降区長

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