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第九章 人物


第九章 人物
(2021年11月12日更新)

第九章 人物

加川公夫(ただお)(明治三年八月 波多津村板木で出生)

長じて軍務に服し日清戦役に勲功がありました。明治三十年七月波多津村助役に就任し、同四十年四月より推されて波多津村長に就任、前後を通じて二十二年余りの長期に亘り村行政の要務に任じ日夜精励され、その業績も顕著でした。特に村政百年の大計を樹立し村有林の造成を推進され、爾来四十数年の歳月を経て百余町歩の山林は見事に育成されました。学校改築や公共事業の唯一の財源となり、今に至るまで町民斉しく敬仰しています。氏が村行政に精励、植林事業、公共福祉の増進に多大の貢献をされたので、郡長、県知事、全国町村長会など幾度も表彰状を受賞されました。昭和二十七年一月逝去。享年八十一歳。

天野 房太郎(文久二年十一月 唐津で出生)

唐津藩士で少壮にして佐賀醫学校で学び、卒業後醫術開業試験に合格されました。更に東京の細菌法醫精神学校で研究を重ね、帰郷して検疫官、学校医、村医等を歴任し、明治三十六年波多津村浦に於いて開業されました。以来三十有余年間患者に対しては、貧富の差なく懇切に治療に当たり、窮乏な人には薬価や治療代を安くし、近隣、遠方より治療を受ける人々に、区別なく博愛心を持って対処し、また、村民の保健衛生に勤められますので、その高徳に対し村民は勿論近隣者一同斉しく敬愛の念を持っています。大正十一年元気益々旺盛で医療業務に精励され、余暇には書画や謡曲を愛しておられました。今後百歳までも健やかで寿福無窮を願って、村有志一同先生の高徳を後世に伝えるため大正十一年十月頌徳碑が建立されました。(天野翁頌徳碑文より)

高森 茂治郎(明治十一年 波多津町弁賀で出生)

明治四十五年、三十四歳の若さで区長に推され、以来区民の要望により昭和六年まで連続二十年間にわたり辻区長の職を勤められました。その間家業の傍ら各種事業の達成に日夜内外を奔走されました。特に大正年間を通じて、浦区と上場間の新村道開通に努力され、十有余年の歳月を経て昭和二年に遂に完成されました。その結果辻区及び周辺地域の発展に与えた効果は計りしれぬものがあります。また当時区民が最も待望していた電灯線引込みを大正八年に完成させ、住民の生活水準と文化的生活の向上に寄与されました。更に湯之浦地先海面の埋立て工事を着工、長い年月を費やし 二町八反歩に余る美田を完成させ、農業の振興に貢献されました。その他、諸々の功績により自治功労者として表彰されること数回に及び、区民より慈父の如く慕われ、惜しまれながら昭和二十年に六十有余年の生涯を閉じられました。

田中 英治(明治二十三年七月 唐津市湊浦田家網元で出生)

明治四十二年三月旧制唐津中卒。大正元年波多津村辻田中酒造へ入籍、その後酒造業に精励され、弓取の商標で販路を拡大。昭和二年には貴族院多額納税者名鑑に記載され、直接国税総額千参百五拾円を納入されています。これは当時の波多津村の年間予算より多いといわれていました。昭和十七年より同二十年の第二次大戦末期に推されて困難な時期に波多津村長に就任。電話開設、道路建設など地域振興に努力されました。特に育英事業にも配慮され、小学校卒業の際成績優秀者に田中本店賞が戦前戦中に継続して贈られました。また政治の面でも佐賀県政友会の重鎮として活躍されました。昭和四十三年十一月逝去、享年七十九歳。勲六等単光旭日章を受賞されました。

松尾 加助(明治二十七年七月 波多津町中山で出生)

大正三年三月佐師卒。同年四月伊万里小訓導となり、曲川小・西山代第二小・波多津高小訓導を経て、大正十四年九月東山代尋常小(現滝野小)校長に昇任されました。昭和六年四月西山代第二小、同八年十月西山代第一小校長を歴任し、昭和十年四月より五年間佐賀師範学校附属小首席訓導(実質的な校長)を務められました。同十五年二月伊万里小校長に転任され、昭和二十一年三月同校を退職、その後伊万里図書館長、波多津村助役及び村長として伊万里市合併に尽力、市教育委員長として教育の正常化に努力、初代市郷土研究会長・初代市文化連盟会長・初代市老人クラブ連合会長・家庭裁判所調停委員等の要職を歴任されました。伊万里市の教育・文化・行政に多大の功績を挙げられました。市長・知事・法務大臣等の表彰状九回・感謝状十一回受賞されています。昭和四十一年に生存者叙勲勲五等瑞宝章を受けられました。平成元年七月二十二日逝去、享年九十五歳。

橋口 政治郎(明治四十四年 波多津町辻に出生)

大正十四年波多津尋常高等小学校卒業後家業を継いで漁業に従事されました。

昭和二十七年福島町他関係周辺漁協と入漁契約し鰯船曳網及び巾着網の操業を可能にされました。昭和二十九年漁業組合理事になるや波多津漁業協同組合長をはじめ県や松浦海区等で幾多の理事・監事・委員等を歴任されました。

昭和四十一年より始まった波多津漁港改修工事の大事業完成に尽力されました。(平成四年完成)

昭和四十七年名村造船進出後は残った少数の漁業者へ鯛・はまちの養殖育成及び蓄養魚の奨励、また車海老の獲殖に着手され、昭和五十三年、県功労者として知事表彰。

昭和五十八年には勲六等単光旭日章叙勲を受け漁港の改修や養殖漁業の導入をはじめ漁業の振興と地区発展に偉大なる業績を残して平成五年十一月逝去、享年八十三歳。

小杉 マツエ(大正七年十一月 波多津町内野で出生)

昭和十二年三月佐女師卒、同年四月長松小訓導、同十四年四月波多津小、同十八年四月伊万里小、同二十一年三月同校退職、昭和三十七年四月波多津町婦人会長に推薦された後は、伊万里市婦人連絡協議会長・県婦人連絡協議会理事・市栄養改善協議会長・県食生活改善推進協議会長・全国食生活改善推進団体連絡協議会長・市教育委員・伊万里地区更生保護婦人会長・家庭裁判所婦人調停委員等の要職を歴任され、市長・知事・更生大臣等表彰状十五回、感謝状十回、計二十五回受賞されています。教職生活は九ヵ年でしたが、各種団体の責任者として、全国規模で社会に貢献された功績は誠に顕著であります。平成五年十二月逝去、七十五歳。

田中 正爾(大正九年六月十日 波多津町煤屋に出生)

昭和十四年三月、伊万里農林学校を卒業され農業に従事されていましたが、その後波多津農業組合に勤められました。

昭和三十二年五月には同農協の常務理事に就任され、以来農協の運営と農業・農村における指導的役割を果たされました。また、地域農業の振興、特に野菜・果樹・畜産の振興に努められました。

更に土地基盤の整備や近代化施設等の導入により農村環境の整備事業に全力を傾注されました。

昭和五十年六月より伊万里市農業協同共同組合組合長理事を勤めるとともに、県農協連合会の要職を歴任され、地域農業の発展に指導力を発揮されました。特に県共済連の副会長時代、会長職務執行者として農協連合会の健全発展に尽力されました。

これらの数々の功績により平成元年五月黄綬褒章を受賞されましたが、平成二年七月六日惜しまれながら、七十歳にて生涯を閉じられました。