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第七章 宗教


第七章 宗教
(2021年12月1日更新)

第七章 宗教

第一節 神社・寺院

一.神 社

町内の神社は明治三十年代後半から、勅令により、「信徒数が少なくて社殿は永年の間に自然と荒廃し、到底維持復旧の見込立たず、祭祀さえもいき届きかねる」として、合祀を指導勧誘され、四十年までには三十数社が次の六社に合祀を終わっている~畑津田嶋神社・ 筒井田嶋神社・板木田嶋神社・浦金比羅神社・木場田嶋大明神・中山大山祇神社。しかしその後還座された神社もあるという。

木場区

田嶋大明神

〇所在地 木場―宇開田 二二三一ノ一番地

〇由 緒 創建年代不詳(旧村社指定)

唐津拾風土記によると、天正十八年庚寅二月隈崎豊後守源倍建立と棟札に書いてあり、今から四〇〇年前になりますが、天正十年(一五八二)熊野十二社権現隅崎庄建立との記録もあります。現在の棟札には慶応元年とありますが、木場城築城と創建との関連があるように思われます。

〇祭 神 市杵島姫命 湍津姫命・田心姫命

合祀になった神社は無連神社(伊弉諾(いざなぎの)(みこと)伊弉冉(いざなみの)(みこと)・忽穂耳尊)の三神並

に字加倉の肥熊神社(素戔嗚神)、字大知木の熊野神社(無弉諾尊・伊弉冉尊)

の以上四社九神が祀られています。合祀 明治四十一年九月(指令収佐二第三五三七号)

〇宮 司 東松浦郡北波多村徳須恵 (つつみ) 貞信氏

〇神社所有地 境内五十五坪 田一反八畝二歩 原野三十町歩(明治四十年当時)

〇祭 日 一月二日 宮司・惣代・区長が出席して祭祀があり、十月十八日の大祭秋祭りには村中で參拝、酒盛りも行われます。春と秋の彼岸にも村中で参拝があります。

合祀された神社

〇所在地 字無連 十二社神社(無連神社)

〇由 緒 創建年代不詳

〇社 殿 二間に三間 木造茅葺 信徒四十二戸 境内十坪(官有地)田一反八畝二歩

〇合祀願文 「右ハ信徒少数ニシテ累年ノ久敷自然(たい)廃致シ到底維持ノ見込無之ノミナラズ祀迄モ行届兼候間 今般同村大字木場開田無格社田嶋神社ニ合祀仕度候間御許可被度下◎別紙双方明細書添信徒惣代並社掌連署此段奉願候也」

〇信徒惣代 松下永太郎 長谷川三治郎 松下定右衛門

〇提 出 明治四十年三月二十七日

〇合 祀 明治四十一年一月九日(合祀指令)

〇社 掌 東松浦郡北波多村徳須恵 堤 卓見(明治四十年現在)

〇所在地 字加倉 肥熊神社

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 素戔嗚命

〇社 殿 二間に三間、木造茅葺 信徒九戸 境内二十歩 民有地 第三種

〇信徒総代 松下初太郎 山口万造 山口安兵衛

〇合 祀 明治四十一年一月九日 木場開田 田嶋神社に合祀

  熊野神社

〇所在地 大字木場字大知木(無各社)

〇由 緒 創建年代不詳

      明治四十年三月木場 田嶋神社と合祀願提出、信徒少数に付き維持管理に

困難のために合祀願。明治四十三年合祀願許可になり木場開田、田嶋大明神

に合祀。但し大知木熊野神社は、大知木氏子の守護の神として継承崇拝し合

祀され残されています。

建物・神殿・拝殿共に同所にあります。建物間口 五m四方。木造瓦屋根

〇宮 司 北波多村徳須恵 堤 貞信氏

合祀前(明治四十年当時)の熊野神社

〇由 緒 創建年代不詳 社殿(拝殿)二間に三間 木造茅葺

〇信 徒 九戸 境内二十坪 民有地 第三種

〇惣 代 末永熊造 松下和吉 橋本丹治郎

筒井区

田嶋神社(村社)

〇所在地   筒井 字上戸平

〇由 緒   創建年代不詳

明治四十一年一月九日、佐賀県指令(佐第四一五号)及び明治四十三年五

月二十八日、佐賀県指令(佐第二六六号)により、明治四十三年七月十五日、波多津村大字筒井字上戸平、1、猿田彦神社、井野尾字前田、2、和田津見神社並に井野尾字鳥居原、3、日枝神社、筒井字小峠、4、大山祇神社が社田嶋神社に合祀されています。

〇宮 司   伊万里市大川町大川野宿 田嶋神社宮司

田中義矩氏

〇神社所有地 境内六四〇坪 第一種官有地 原野一畝 田一反七畝十六歩(明治四十

一年現在)

〇祭 日   一月一日 一戸一名以上参拝、正月初祈願祭 四月に春祭り

宮司の司祭により村中で参拝。五月に苗代種蒔き後、豊作を願って祈願。

七月下旬 夏季の流行病にかからぬよう村中で参詣。九月中に牛神様祭り。

以前は牛神様の前でお籠り・酒盛りが行われていた。牛神様は筒井の山の

頂上付近。

       十月 秋祭り 秋の收穫感謝祭り

十一月 筒井の「お供日」で神前にお酒・米・甘酒等を供える。

十二月 今年最後の感謝祭り 昔は稚児舞いなどがあっていた。

合祀された神社

〇所在地 筒井字上戸手 猿田彦神社(無格社)

〇祭 神 天字津女命

〇由 緒 創建年代不詳

〇神 殿 四間に二間半 木造瓦屋根

〇拝 殿 三間に六間 木造茅葺 信徒七十戸 境内六十八坪(官有地)

〇信徒惣代 田中恵太郎 市丸三太郎 宮崎吉作

〇合 祀 明治四十一年一月九日(佐兵第四一五号)田嶋神社に合祀

〇所在地 筒井字小峠 大山祇神社(無格社) 祭神 大山祇命

〇由 緒 創建 元和三年 社殿・石祠・境内二坪(官有地) 信徙七十二戸     

〇信徒惣代 市丸三太郎 宮崎吉作 田中恵太郎

〇合 祀 明治四十一年一月九日 佐賀県指令(収佐兵第四一五号)明治四十三年五月

二十八日 佐賀県指令(収佐兵第二六六号)によって合祀認可(明治四十四年現在)

井野尾区

山王宮

〇所在地 大字井野尾 字鳥居原(無各社)

〇由 緒 創建年代不詳 山王宮鳥居は實政七年(一七九五)建立の記録がある。

〇祭  神 大山咋命

〇山王宮の意義 山王宮の祭神は大山咋命で「グイ」というのは山の木や五穀をグイグイ

と延して育ててくださる神徳を表しており、五穀豊穰や家庭での日常生活の守り神とも云い、山の頂上や高い場所に鎮まる場合が多い。

総本社は滋賀県大津市の日吉の大社であるが、山王の名前はこの大社

の延暦寺のそばから山王権現と称したことから出ている。当時の神仏習合思想の影響を受け、日吉神社の神は釈迦の垂示とされ、極めて位の高い神とされたところから多くの信仰を受けている。山王権現の名を以て、驚異的な発展をとげ、全国の分社はおよそ三八〇〇社に至っている。また京都の松尾大社の御祭神も大山咋命であり、酒造組合の信仰を受け、酒の守り神として知らされている。(山王宮掲示板より)

〇神 殿 間口・奥行共に三m。木造瓦屋根

〇祭 日 一月一日 四月六日の春祭りの時は、坂下の公民館で酒盛りがある。

七月上旬 夏祈祷 夏の流行病防止のため村中で参拝。

十月六日 秋の感謝祭り。

〇宮 司 大川町大川野宿 田中義矩氏

合祀された神社

〇所在地  井野尾字前田 和田津見神社(無格社) ()場整備のため跡形もない

〇由 緒  創建年代不詳

〇祭 神  海童命

〇社 殿  石祠 拝殿は一間に一間一尺。木造瓦屋根 信徒四十戸 

境内三十五坪(官有地)

〇信徒惣代 古河昇治郎 高田吉次郎 古川百造 

〇合 祀  明治四十一年一月九日 明治四十三年七月十五日筒井上戸平 田嶋神社に

合祀。

〇所在地  字鳥居原 日枝神社(無格社)

〇由 緒  創建 永正二年十一月

〇祭 神  伊佐奈岐尊・伊佐奈美尊 社殿は一間に一間 木造瓦屋根

拝殿は三間に六間、木造茅葺

〇鳥 居  唐基 九尺三寸 燈籠一対 九尺六寸 境内三〇〇坪(官有地)

信徒三十七戸

〇合祀願文 「右ハ信徒少数ニシテ自然(たい)シ維持困難見込モ無之ノミナラズ祭祀マデモ

行届兼候条今般同村大字筒井村社田嶋神社ニ合祀仕度候間御許可被成下度別

紙双方明細書相添へ信徒惣代及社掌連署ノ上此段奉願候也」

〇信徒惣代 古河昇治郎 高田吉治郎 古川百造

〇合 祀  右二社明治四十一年一月九日認可 

明治四十三年七月十五日筒井上戸平村社田嶋神社に合祀

田代区

三島神社

〇所在地  大字田代 字大平

〇由 緒  創建年代不詳

明治四十年九月、田代字下の原の三島神社が、板木字前田、村社田嶋神社に合祀され、尚三島神社を分祀され現在の三島神社をむらの氏神として崇拝継承されています。神社前石段の下に弘治六地蔵と樹令五百年に及ぶ杉の大樹が立っていたことから、創建は古いものと推定されます。鳥居は、合祀になった島神社の鳥居を現在地に移転したものです。

〇祭 神  大山衹命(山の守護神)

〇神 殿  六m四方。木造瓦屋根

〇祭 日  一月五日 宮惣代・区長等が参列、宮司の司祭によって祭典。祭典後は、

各氏子の家の今年の幸運と健康祈願のため家払い行事があります。

七月上旬は、夏の流行病にかからぬよう祈願します。

合祀された神社

〇所在地  田代字下の原 三島神社 現在田代市道 古河幸雄氏の杉山の中

〇祭 神  大山衹命

〇由 緒  創建年代不詳

〇社 殿  一間に八尺 木造茅葺

〇拝 殿  三間に四間 木造茅葺

〇信 徒  三十三戸

〇境 内  五十五坪(官有地)

〇合祀願文 「右社信徒少数ニシテ累年ノ久シキ自然頽廃し到底維持ノ見込無キノミナラ

ズ祭祀迄モ行届キ兼候間今般同村大字板木村社田嶋神社合祀仕度候間御許可

被成下度別紙双方明細書添信徒及ヒ氏子惣代並社掌連署此段奉願候也」

〇年 代  明治四十年三月十日 無各社三島神社

〇信徒惣代 古河与太郎 古川善助 渡辺米太郎

〇合祀願  明治四十年三月十日 合祀願いを県に申請 田代 福野善四郎

(田嶋神社惣代)

〇認 可  明治四十年八月九日 佐賀県指令収(佐二第一五六八号)

〇合 祀  明治四十年九月二十二日 板木字前田 田嶋神社に合祀(明治四十年現在)

(神社合祀より)

板木区

田嶋神社(村社)

〇所在地  大字板木 字前田

〇由 緒  昔、板木法行城築城のみぎり、鎖守の神として、田嶋神社の三姫神を勧請したと伝えています。以前は波多津郷八ケ村の総社。明治五年、村社に列せられ、明治四十年村内の無各社合祀により三島神社外六社が追加されました。

〇創建年代 中世、板木郷は松浦源氏波多氏の所領で岸岳城と波多津港を結ぶ要所でした。そこで一族の渡辺源太翔の末裔古川越前守保に砦を築かせ板木郷の守りとしました。砦は法行城ともいわれます。子孫代々城主で久家玄番允計に至って波多氏改易に伴い下城。子孫は庄屋として板木郷を司りました。(徳須恵松浦家系譜)

田嶋神社は法行城の鎮守であったので久家保が勧請し、鎌倉末期から南北朝期にかけて創建され、併せて薬師如来と勧請、浄光寺が建てられたと思われます。(富岡行昌氏調査による)

尚、明治四十年八月神社統合指令により三島神社(田代字下の原)、天満神社(津留字田頭)、田嶋神社(主屋字前田)、五穀神社(主屋字岩屋)、稲荷神社(同)、白木神社(板木字白木)、天満神社(字前田)、八幡神社(同字小野の原)が合祀統合されました。

〇祭 神  田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・大山衹命(三島神社)、菅原道真(天満神

社)、 三姫神・大山衹命(田嶋神社)、・稲荷社(五穀神社)、宇賀魂命(同)、

高皇産霊神(白木神社)、神皇産霊神(同)、昌陀和気命(八幡神社)以上九

社十神柱が祀られています。

〇神 殿  上段◎m四方。木造銅板張り。柱の根元も銅板で張ってありましたが、盗難

      に遭う。

〇拝 殿  建坪十五坪 平成四年三月竣工 再建新築 施主 坂本篤郎氏

施行 古館建設

〇お籠り堂 間口十二m 奥行六m 木造瓦屋根 旧拝殿でした。

〇宮 司  北波多村徳須恵 堤 貞信氏

〇祭 日  一月五日 氏子惣代・区長等參列のもと宮司の司祭でお祭りがあります。

祭典終了後、家内安全・健康祈願のため各家を(まわ)り、家払いが行われます。

二月二十七日 記念祭 氏子惣代 区長参列・宮司により司祭

四月折りを見て神社参拝後、本年のお祭りの予算が話し合われる。

五月七日 春の大祭 昔は余興として芝居・青年団相撲が行われました。

七月上旬 田植えが終わってから、村中集まって夏祈祷があります。

十月二十七日 秋祭り 氏子中集まり秋の感謝祭。昔は当日が板木の「お供

日」とされていました。以前は春秋の彼岸祭り、お日待ち等もあっていまし

たが、現在は行われていません。

〇拝殿落成及び記念碑について

平成四年三月八日、拝殿落成式挙行。坂本氏、町内役職者、有志、氏子が

出席し、板木・津主合同主催によって厳粛盛大に挙行されました。

拝殿落成式終了に引き続いて記念碑の除幕式を挙行。神社中段の第三鳥居右に高さ台一m、本体二・五m、自然石で建立。

〇坂本先生頌徳碑 碑文 伊万里市長 竹内通教書

「源氏松浦党板木法行城主の末裔である坂本篤郎氏は、(つと)に敬神崇祖の念厚

く大阪豊中市で医業を営むかたわら私財を投じて、法行城跡をはじめ歴代

城主及び岸岳末孫の霊碑を建立整備されると共に薬師如来堂ならびに、田

嶋神社の改築を行われ、ふるさと基金として伊万里市と地元地区に多額の

浄財を寄付され、郷土の発展に尽瘁されました。ここに深く敬意を表する

と共に後世まで先生の偉業を奉賛することを誓い記念碑を建立するもので

ある。」

平成四年三月吉日 氏子一同 (謹書 加川周史)

〇拝殿新築 拝殿は約三十年前建てられて、老朽化までには至っていませんでしたが、度々       の台風により傾きかけていました(建坪十二坪)。前記の坂本篤郎氏から、拝殿新築の申し入れがあり、感謝し敬意を表して新築の運びとなり、平成四年三月に竣工しました。

建築費用は坂本氏が殆ど負担され、氏子は一部負担程度で、地元古館建築、古館増男氏の卓越した技術と熱意によって、見事完成し、市内でも誇るような拝殿が建立されました。

〇建築委員 委員長 板木区長 前田博行 副委員長 津主区長 太田国一

委員 前田良美 前田繁和 前田敏和 前田政行

〇惣 代  瀬戸勘次 畑山 亘 市丸国重 市丸義弘

〇施 工  古館建築

〇顧 問  加川周史

合祀された神社

〇所在地 板木字白木 白木神社(無格社)

〇合祀年 明治四十年八月、神社統合指令により

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 高皇産霊神 神皇産霊神

〇社 殿 二間に三間 木造茅葺

〇信 徒 十八戸

〇境 内 六十八坪(民有地)

跡地は現在、圃場整備のため跡形もない。

〇所在地 板木字前田 天満神社(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 菅原道真

〇社 殿 二間に三間 木造茅葺

〇信 徒 八戸

〇境 内 七十二坪(民有地)

〇跡 地 古館静雄の杉山跡地に石積みの無記名の石碑があります。

〇所在地 板木字小野の原 八幡神社(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 昌陀和気命

〇社 殿 二間に三間 木造茅葺

〇信 徒 十九戸

〇境 内 九坪(民有地)

〇惣 代 右三社共に古館東七 市丸常七 前田定治

〇宮 司堤 貞見氏

〇跡 地 前田繁和氏の畑地になっています。

〇合祀願文 「右参社は信徒少数ニシテ累年ノ久シキ頽廃到底維持ノ見込無之而己ナラズ祭祀迄モ行届兼候間今般同村村社田嶋神社へ合祀下度候間御許可被成下別紙双方明細書添属信徒惣代並ニ社掌連署此段奉願候也 明治四十年三月十八日」

〇合祀認可 明治四十年八月九日、板木前田 田嶋神社へ合祀認可、同年九月二十二日合祀。

明治初年頃の板木の田嶋神社

〇社 殿 二間に一丈二尺 木造瓦屋根

〇祝詞座 一間に七尺 木造瓦屋根

〇拝 殿 三間に六間 木造茅葺

〇宮 司 北波多村徳須恵 堤 卓見氏

〇信 徒 一九〇戸

〇境 内 三五〇坪(官有地)

〇神社所有地 田 一反一畝九歩 地価額二五〇円 山林 四反四畝 地価額一一〇円 原野 一町二反九畝一歩 地価額二二〇円 合計価格 五八〇円(明治四十年)

〇信徒惣代 板木 瀬戸重佐衛門 田代 福野善四郎 津留 市丸善造 

中山 田中善太郎 主屋 市丸安太郎 木場 松岡泰作

   津主区

田嶋神社

〇所在地 大字主屋字前田(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳(旧田嶋神社) 再建 大正十一年九月吉日

明治四十年まで氏子の守護神として安全を祈願し、崇敬されていました。神社統合指令によって、同村板木字前田村社田嶋神社に合祀。後、市丸建設の先代社長市丸広太郎氏が、当時土木請負業をされていた関係もあり、事業の安全と地域住民の守護神として大正十一年九月吉日、自己の土地を提供して再建。その後、現在の市丸建設社長市丸徳一氏が私財を投じて平成二年頃より鳥居・ 唐獅子・燈籠等を揃え、神社境内を広げ、整備され氏子一同より崇敬される神社となりました。

〇拝 殿 建設計画中

〇祭 神 市杵島姫命 湍津姫命・田心姫命 大山祇命

〇宮 司 北波多村徳須恵 堤 貞信氏

〇祭 日 宮司と検討中

合祀された神社

〇所在地 大字主屋前田 田嶋神社・大山祇神社 二社とも無各社

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 大山祇命

〇社 殿 一間に一間半 木造瓦屋根

〇拝 殿 三間に四間 木造茅葺(お籠り堂)

〇信 徒 十一戸

〇境 内 九十一坪(官有地)

〇所在地 字岩屋 五穀神社 稲荷神社 共に無各社

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 石祠 高さ 二尺五寸

〇信 徒 十一戸(両社計)境内四坪(官有地)

〇所在地 大字津留字田頭 大山神社 天神神社 共に無各社

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 大山祇命 菅原道真

〇信 徒 十二戸

〇境 内 三十八坪(官有地)

〇社 殿 一間に一・五間 木造茅葺 拝殿 三間に四間 木造茅葺(お籠り堂)

〇合 祀 明治四十年八月九日 佐賀県指令収(佐二第一五六八号及び一五六九号)

     大字板木前田 田嶋神社に合祀 明治四十年

〇惣 代 太田国四郎 市丸米太郎 市丸円作 前田栄吉 前田音次郎 市丸国太郎

     中山区

大山祇神社

〇所在地 大字中山 字西の平(無各社)

〇由 緒 創建年代不詳 大山祇命又は大山津見神ともいいます。

     大山祇命は伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれ、山を納める神とされて

います。(古語辞典)

明治四十年八月八日、佐賀県指令収(佐二第二八六八号)により合祀。字上

の原の稲荷神社、◎字立石 五穀神社を共に明治四十年十月二十六日、西の平大山祇神社(無格社)へ合祀。尚、五穀神社は、慶応二年四月丑の日稲が不作になったので建立されました。

〇祭 神 大山祇命 保食神(五穀神社) 倉稲魂命(稲荷神社)

〇宮 司 東松浦郡北波多村徳須恵 堤 貞信氏

〇祭 日 一月上旬 宮司により司祭。祭典後、氏子の家を回り、宮司により家払いが行われます。

五月春祭り 苗代の種蒔きが終わって、豊作祈願があります。

七月上旬  田植えが終わってから、夏の流行病防止の祈願があります。

十月 秋祭り 豊作感謝の祭り。

合祀された神社

〇所在地  中山字上の原 稲荷神社(無各社)

〇由 緒  創建年代不詳

〇祭 神  倉稲魂命

〇社 殿  一間に一・五間 木造瓦屋根

〇信 徒  一戸 境内七坪(民有地) 

〇信徒惣代 古賀初太郎 田中◎太郎 田中末次郎

〇所在地  中山字立石 五穀神社(無各社)

〇由 緒  慶応二年寅四月丑の日 稲作が不作のため建立

〇祭 神  保食命

〇社 殿  石祠 一尺に一・二尺 信徒五十一戸

〇境 内  五十坪(民有地)

〇合祀願文 「右ニ社ハ信徒少数ニシテ累年ノ久敷自然頽廃致シ到底維持ノ見込無之ノミナラズ祭祠迄モ行届兼候条今般同村中山字西ノ平無各社大山祇神社ニ合祀支度候間御許可被成下度別紙双方明細書相添信徒惣代並社掌連署此段奉願候也」

〇社掌信徒惣代 社掌 堤 貞見 惣代 古賀初太郎 田中◎太郎 田中末次郎

〇合祀願  明治四十年三月二十日提出 同年八月八日合祀許可(県指令二八六八号)

〇合 祀  明治四十年十月二十六日 西ノ原大山祇神社(無各社)に合祀。

畑津区

田嶋神社(村社)

〇所在地 畑津字八斗田

〇由 緒 創建年代は不詳ですが、畑津宝泉寺の古文書によると、御岳城主畑津平内清和公(三〇〇戸)の祈願所又は、岸岳城主波多家の祈祷所として祭祀を営まれていた、とあります。再建は元武元年九月(一一三四)、大工安部邦宗と神社古文 書に記録があります。

〇祭 神 市杵島姫命 多岐津姫命 田心姫命 伊邪那岐命 伊邪那美命

明治四十年神社統合指令により左記の神社を合祀。

畑津 天満神社(菅原道真) 内野 飯盛神社(伊弉諾命 天忍穂耳命 伊弉冉命) 内野 天満神社(菅原道真) 煤屋 黒男大明神(大国主命)

馬蛤潟 龍神社(海童命)以上十一神

〇国重要文化財指定

昭和五十九年、田嶋神社本殿は九州芸工大学教授 沢村 仁氏・文化庁建造物課長 工藤圭卓氏等の調査があり、昭和六十年十二月一日、伊万里市重要文化財の指定を受けた。更に昭和六十二年六月三日、国重要文化財として指 定を受けました。建築史・地域史等の学術研究上、極めて貴重な建造物と高い評価を受けています。

〇建造物の構造

本殿は裄行三間、(はり)行四間の切妻造りで桟瓦葺覆屋になっています。本殿の構造の形式は柿葺(こけらぶき)三間社()()棚造(たなづく)りと呼ばれるものです。

身舎(もや)柱は床下で八角柱、床上上内(のり)は正面の中柱を除き、すべて十六角です。柱はすべて自然石上に建てられてあり地貫(こし)内法(うちのり)長押(なげし)と頭貫と呼ばれる建築技法で作られています。柱頭には平三斗と呼ばれる形式の組物が置かれ、四隅は連斗なしの(つれ)三斗(みつど)と呼ばれる形式の組物で造られています。

四隅の(はかり)(ひじ)()は正面及び背面側は肘木とせず木鼻になっています。木鼻はほぼ垂直に切断されています。妻側には中備は全くなく、妻飾りは(いのこ)叉首(さす)と呼ばれる形式で造られています。

正面三間は幣軸付き板唐戸で内部は板床竿緑天井で背面に高(さく)を設けてあります。見せ柵は大面取りの角柱を自然石の石礎上にたて、下面面取の頭貫を渡しています。柱頭は()三斗(みつど)で両端は頭貫木鼻を振肘木に連三戸とし、()()(はしら)とは(つなぎ)(こう)(りょう)で結んでいます。

中備は中央間のみ(ます)配しています。正面三間中央間のみ斗を配すという建築技法がこの建造物の大きな特徴のひとつになっています。向拝(こうばい)の裄や、垂木(たるき)は後年の補修であり、建立当時の物でなく、新しいと思われます。

この社殿は残存する顔料から、本来は朱塗りの彩色の社殿と考えられます。神社創建年代は相当古いものと思われます。

〇手洗鉢と建物新設

平成四年、氏子中で新設。手洗鉢は自然石。建物は木造瓦屋根。

合祀された神社

〇所在地 大字畑津字八斗田 天満神社(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 菅原道真

〇神 殿 一間四方 木造瓦屋根

〇境 内 九十五坪(官有地) 信徒 四十八戸

〇合祀願文 「右ハ信徒少数ニシテ累年ノ久シキ頽廃致シ到底維持ノ見込無之而巳ナラズ祭祠迄モ行届兼候間今般同字村社田嶋神社へ合祀仕度候間御許可被成下別紙双方明細書添属信徒惣代並ニ神掌連署此段奉願候也」

明治四十年三月二十八日 社掌 田村力太郎

〇信徒惣代 田中告太郎 中島三郎 前田末太郎

〇合祠認可 明治八年八月八日 合祀認可(佐第一五六号)

〇合 祀 明治四十一年九月十九日 畑津八斗田 田嶋神社に合祀

〇祭 日 正月祭り 一月 一日 宮惣代参列・宮司により司祭

記念祭  三月十七日 右に同じ

     祇園祭  七月十四日 前夜祭 宮司・宮惣代・区長参拝

          七月十五日 本祭り 宮惣代・区長参列 馬蛤潟にお下り

     田島祭  十月十六日 宮惣代・区長参拝

          十月十七日 宮惣代 浦新地へお下り 浦区民は皆参拝される、供日

     大抜祭  十二月三十日 年越行事

〇氏 子 畑津・内野・煤屋・馬蛤潟・辻・弁賀・平串・浦の区民

     畑津老人クラブでは毎月一日・十五日に神社掃除の奉仕が行われています。

     特に四、五日の落葉の時は全員出席して清掃がなされます。又、祇園祭り・

     田嶋祭りと年末は老人クラブによって〆縄を作り奉納されます。

    内野区

   合祀された神社

〇所在地  内野字河下 飯森神社(無各社)

〇由 緒  創建年代不詳

〇祭 神  伊弉諾命 天忍補耳命 伊弉冉命

〇神 殿  一間に二尺四方 木造瓦屋根 拝殿 三間に◎六間 木造茅葺

○境 内  七五八坪(官有地) 第三種 信徒七十五戸

○所在地  内野字下田 天満神社(無各社)

○由 緒  創建年代不詳

○祭 神  菅原道真

○境 内  一〇四坪(官有地) 第三種 信徒七十五戸

○合祀願文 略

      明治四十年三月二十七日 社掌 田村力太郎 信徒惣代 井手丈助

      坂本亀左衛門

○合祀認可 明治四十年八月八日(収佐二第一五七四号及び一五六五号)

      畑津字八斗田 田嶋神社に合祀。

煤屋区

黒男大明神

〇所在地 大字煤屋字煤屋

〇由 緒 創建年代不詳

      昔、煤屋崎に畑津浦の漁夫が島かげに漂流していた漆塗の筥を拾い上げてみると、御神体(御鏡)が現れました。これを大事にし、煤屋崎の沖にある島の岩蔭(現在の古神山)に祀りました。そして漁に出る毎に御神酒や供物をして参詣をしていたところ、この漁夫は大漁続きでその子孫まで富を得たといわれます。(田村宮司からの伝承)

黒男大明神は、明治四十年八月八日(佐賀県指令收佐二第四十七号◎第一五六四号)合祀許可を得て、明治四十一年九月十九日、畑津八斗田、田嶋神社に合祀。古代から氏子の守護神として現地に残され、合祀され今日に至っています。

〇祭 神 大国主命(蘆原醜男(あしはらのしごうみの)(みこと)

〇宮 司 大川町大川野宿 田嶋神社宮司 田中義矩氏

〇神社歴 今から二三十余年前宝暦三癸西六月吉日、古神山での祭祀が不便なため、現在地小島に移転。福田村 坂口守人・名取格右衛門とあり、天保十三年王寅歳正月吉辰、願主氏子中。社人 福田村 坂口守人・庄屋佐伯熊作、名頭善九郎 

惣代 東造減吉。鳥居建立の銘があります。

黒男大明神宮の再建は明治十二年巳卯九月殻且。社人 塩屋村 牧野津田衛  当番 岸本広右衛門、田中和助、大工 内野村 脇山善四郎、◎与吉(棟札による)

明治四十一年九月神社統合指令により御神体(御鏡)を新調し、明治四十三年九月合祀。黒男神社 煤屋村と銘を刻み、波多津字八斗田、田嶋神社に合祀。

〇祭 日 一月二十日 百々平神事

七月    夏祈祷・疫病災難除け

十月    秋の願成就。十月二十七日晩「イトマゲ」(神送り)をされ、出雲大社へ出発される。

十一月二十八日 「ウチムキヤ」(神迎え)が昔から代々受け継がれています。

〇拝殿再建 平成二年七月吉日新築 宮惣代 田中 繁

世話人 田中繁幸 田中次雄 評議員 田中勝利 佐伯光義 岸本熊一

田中健一

合祀された頃の黒男大明神

〇所在地 字煤屋 黒男大明神(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 大国主命

〇神 殿 一間三尺四方 木造瓦屋根 拝殿 二間三尺に五間 木造茅葺

〇境 内 三一七坪(官有地) 第三種 信徒三十八戸

惣代 田中定右衛門 田中万五郎 田中弥市

〇合 祀 明治四十年八月八日認可 明治四十一年九月同村畑津村社田嶋神社に合祀。

   馬蛤潟区

   龍神社

〇所在地 大字辻字深浦(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳

・明治四十年三月二十八日 合祀願を県に申請

・明治四十年八月八日 佐賀県指令收佐二第四七号により合祀許可

・明治四十一年九月十九日字深浦の龍神社は村社田嶋神社(同村畑津八斗田)に合祀。分祀され、現在地に昔のまま残され、氏子の崇敬を受けています。

〇祭 神 海童命 海上の安全守護の神

〇神 殿 間口 五m、奥行 四m 木造瓦屋根

〇宮 司 大川町大川野宿 田中義矩氏

〇祭 日 祭日は畑津田嶋神社に合祀された関係上、定祭日はないようですが、祭日は畑津田嶋神社に参拝したあと、地元龍神社に参拝されています。

馬蛤潟は今から二百八十余年前、馬蛤潟新田耕地整理がなされ、農地の耕地面積も他の村より多く、昔から専業農家として農産物生産一筋に励まれてきました。そのため風水害の災害防止、豊作を願って敬神崇祖の念が厚く祭祀が継承され、今日に至っています。

〇農作物祈願 ・二百十日 二百十日は古代から台風で農家の最悪の日で、村中で集まり安全を祈願してきました。祈願祭典後は公民館で一重を持参し、お神酒を振舞い酒盛りが行われています。

・二百二十日 この日も台風の襲来日として、時間を定め農家の人が参詣します。

二百三十日を過ぎてから、都合を見て御願成就のお礼参りをされる。特に農家の方は二百十日から二百三十日に至る間、毎日夕方頃から祈願のため灯明を捧げられます。又、年間を通じて一日と十五日は家周りで神社に明を捧げて、家内安全、五穀豊穣のため参詣されます。農作物の安全祈願行事がこのように熱心に行われるのは、町内はもとより市内でも稀有のことといえましよう。

〇祇園祭り  以前は旧六月十五日でしたが、現在は七月十五日が恒例の祭りになってい       ます。古代より馬蛤潟の祇園祭りは有名で、畑津の田嶋神社より御降神になり馬蛤潟堤防でお祭りがあります。以前は町内はもとより町外からも参拝者が多く、出店等もあって大変な賑わいを見せていました。

祇園祭りは馬蛤潟区内であり、龍神社とは関係がないように思われますが、龍神社は海上安全・氏子の守護神であり、八丈龍王は堤防の守り神で、祇園祭りも堤防安全で関係が深いといえましょう。かつて唐津藩城主寺沢志摩守が新田堤防を重視し、安全防止と警戒のため武士七人を警護に当てていたといわれます。

合祀願頃の龍神社

〇神 殿 一間四方 木造瓦屋根

〇境 内 三〇〇坪(官有地)

〇社 掌 田村力太郎 信徒惣代 辻兼太郎 井手宇太郎 柴田友太郎

〇信 徒 二十四戸

〇合祀願文 「無各社 龍神社 右ハ信徒少数ニシテ累年ノ久シキ頽廃シ到底維持ノ見込無之而巳ナラズ祭祠迄モ行届キ兼不候間今般同村畑津村社田嶋神社へ合祀件度候間御許可被成下別紙双方証明書添属信徒惣代並ニ社掌連署ノ上此段奉願候也

明治四十年三月二十八日」

〇合 祀 明治四十年八月八日 佐賀県指令収佐(第四十七号)をもって合祀許可。

同年九月十九日合祀。

辨賀区 合祀された神社

〇所在地 大字辻字弁賀 田嶋神社(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 多岐津姫命 市杵島姫命 田心姫命

〇神 殿 一間四方

〇拝 殿 二間に三間 木造茅葺

〇境 内 二五六坪 (官有地 第三種)

〇合祀願文  「右ハ信徒少数ニシテ累年の久シク頽廃致シ到底維持ノ見込無之祭祀ナラズ祭祠迄モ行届兼不候間、今般同村辻高尾無格社、金比羅神社へ合祀仕候間御許可被成下別紙双方ノ明細書添属信徒惣代連署此段奉願候也」

明治四十年三月二十六日 大字辻弁賀

〇信徒惣代 高森良吉 高森仁造 高森善太郎

〇合祀許可 明治四十年八月九日 佐賀県指令(佐二第一五七一号)を以て許可

同年九月二日 辻高尾の金比羅神社に合祀。

浦区

金比羅神社

〇所在地 大字辻高尾(無格社)

〇由 緒 創建年代不詳

明治末期、神社統合指令により猿神社、田嶋神社(弁賀)、浦野林の薮佐神社、 かまど神社が合祀されました。金比羅神社は古語辞典によれば、仏語、(ぼん)語で「(わに)」の意です。仏法を守る神々の一つで、魚の体で蛇の形をし、わが国では航海安全の守り神とされています。現在、玄海国定公園となり、高尾山の山頂に金比羅神社として祀られています。

昭和の中期頃迄は御神輿も繰り出され御幸祭も賑やかでしたが、毎度の御幸神に雨天の日が多く、現在は中止となり、祭典だけが行われています。以前は辻村弁賀、平串、大園、本辻、野林、中組、郷の浦の住民はこの神社の氏子でしたが、昭和四十五年頃より波多津西部地区全集落が氏子となっています。

〇祭 神 大物主命 天穂日命(薮佐神社)高彦根命(塩竈神社)猿神社(同)

天宇津女命(同)田嶋神社は市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命 以上五社七神柱

〇宮 司 大川町大川野 田嶋神社宮司 田中義矩氏

〇祭 日 ・一月十一日 金比羅神社と大神宮(お伊勢様)に浦の組内の人は神前に供物を供えます。参拝後は、組内で酒盛りが行われます。各部落も同じ行事ですが正月、五月、九月の各一日に行事があります。

     ・八月十七日 お盆祭りとしてお伊勢様祭りと同じ行事がありますが、現在は八月中の休日を利用して行われます。

合祀された神社

〇所在地 大字辻 薮佐神社(無格社)野林地区

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 天穂日命

〇祭 殿 九尺四方 木造瓦屋根

〇境 内 四歩

〇信 徒 一五〇戸

〇所在地 大字辻 塩竈神社(無格社)野林

〇由 緒 創建年代不詳

〇祭 神 高彦根命

〇社 殿 九尺四方 境内一五五坪

〇信 徒 一五五戸

〇所在地 大字辻 猿神社(無格社)野林

〇祭 神 天守津女神

〇社 殿 一間半に二間 木造瓦屋根

〇境 内 三十八坪(官有地) 信徒 一五五戸

〇合 祀 明治四十年八月八日 佐賀県指令収(佐第一五七一号)を以て合祀許可を得て、同年九月二日 金比羅神社に右三社共に合祀。

〇信徙惣代 平松源治 稲葉義男 大石伝佐衛門

二、寺

清水山流光院西雲寺 浄土宗

〇所在地 波多津町木場

〇開 山 神蓮(じゃ)高誉上人嶺公大和尚・元()二年(一六一六)

〇本 尊 阿弥陀如来

〇脇 士 観世音菩薩 勢至菩薩

〇中 輿 当山五世願蓮社重誉上人・元録六(かのえ)(とり)十二月十一日亡(一六九三)岸岳城主

波多家の祈願所でありました。真言宗の本尊大日如来像があり、現在の仏像は、寛永元(きのえ)()三月(一六二四)に寄進されたものです。

波多三河守三男姫の位牌 法名西雲院殿利貞妙養禅尼 天正十七(つちのと)(うし)十一月十日没(十六歳)

波多家よりの知行―伝承によると十石というが記録不詳、寺田がありました。 本堂内大鏧―明暦二丙午年(一六五六)、半鐘 銘明和二(きのと)(とり)年(一七六五)

寄進

〇現住職 第二十七世 栄哲和尚

向陽山宝泉寺 曹洞宗

〇所在地 波多津町畑津

〇開 山 東岳融誾大和尚 慶長十九甲寅歳寂滅(一六一四)

〇開 基 御岳城主畑津平内清和(大道月仙居士三百石)

〇本 尊 薬師如来

〇脇 士右 日光菩薩 宝永四丁亥天八月吉祥

左 日光菩薩 大仏師法橋梁慶作

〇中 輿 当山第三世 白岩泰翁和尚 元文二丁巳年(一七三七)

火災 明治四十三年乙酉(一九一〇)全焼

〇養寿寺分立 当山再興 大正元年壬子第十七世無学仙外大和尚

〇本堂内大鏧 銘畑津村宝泉禅寺現住悦舂叟代覽政元巳酉年(一七八九)

〇本堂前半鐘  銘干時寛文三(一六六三)(かのえ)()歳十一月吉日誌焉鋳物師樹善兵衛政往作、日本西海路肥前州上松浦郡向陽山禅寺住持天海祖舜和尚小弟知全憑十方

檀那助力鋳半鐘一ロ以掛干堂前所布結縁之輩現世安穏後生善處郡生徳益山冥

〇火災を免れた位脾

帰真久室妙昌大師 元録十三(かのえ)(たつ)天十二月十三日(墓所本辻に在ります) 大般若経 松浦山座主 丼木坊の墨書名があります。

〇現住職 第十九世 哲信和尚

光月山法徳寺 真宗

〇所在地 波多津町内野

〇開基―開山 一世空円法師

一世はもと井手飛弾守といい岸岳波多家の五百石取りの侍大将でしたが、主君波多三河守が豊臣秀吉によって常陸に配流後は剃髪して、松浦藤川内邑に光雲寺、同提川邑に西念寺を建て、後に当邑に法徳寺を建立したとの伝承があります。

寛永十六卯巳年(一六三九)本山より寺号(真宗大谷派法徳寺)、並びに御本尊を賜わりました。

〇御本尊 阿弥陀如来尊像

〇中 輿 第十世賢寂住職 堂宇建築その他寺門興隆に挺身されました。

第十一世 翫亮住職 第十二世蓋雄住職 第十三世亮海住職

〇再 建 万治元(つちのえ)(いぬ)年(一六五八)二世受山再建

〇大梵鐘銘 光月山法徳寺本堂改築記念第十五世願主釋彰潤

施主 甲府市小杉実五郎 井手與平治

昭和三十五年九月滋賀県愛知郡湖東町鋳匠黄地佐平謹鋳南無阿弥陀仏正覚大音響流十方

〇現住職 第十六世 量潤住職

万年山養寿寺 曹洞宗

〇所在地 波多津町辻

〇開 祖 桂林大和尚

〇本 尊 釈迦如来 当初肥後国細川候の祈願所

〇再 建 明治四十二年近年荒廃せるを熊本より福地大賢 和尚当山再建

二代 良悟和尚(東堂 位牌堂建立)

三代 道雄和尚(納骨堂建立)

〇現住職 第四世 龍雄和尚(庫裡建築、石垣並参道改築)

〇寺院建築 昭和十五年

〇大鏧銘 為先祖菩提施主清水前田作太郎 養寿院移転第二世鳳山良悟代維時

大正四年旧七月十日

〇小鏧銘 昭和六十年九月吉日 寄贈梅花講員一同

〇半鐘銘 大正三年九月吉日 調進所京都寺町高橋戈治郎

三、おこもり堂

木場大師堂

〇所在地 波多津町木場清水

〇祀ってある仏様 弘法大師

〇由緒と行事 明治の初期に祀られたといいます。現在はおこもりもなくなりました。

しかし、終戦後まではおこもりがあっていました。おこもりのときは、酒や煮しめをもって弘法大師堂に村中のものが集まりお詣りをして豊作や健康安全の祈願をしていました。お堂の広さは二間真四角位でありました。

板木薬師堂

〇所在地 板木字前田田嶋神社境内

〇祀ってある仏様 弘法大師

お堂の中央仏壇に鎮座 弘法大師木造高さ一米、右薬師如来みかげ石高さ一米、外に二体の仏像、左三界◎霊等 法行城跡歴代城主末孫霊位等の木製位牌四〇糎祀ってあります。

〇由 緒 創建年代不詳 もとの名吉浄寺 薬師如来同所に付き関連していると推定さ

れます。

〇薬師堂建物 昭和の中期頃まで建坪十二坪の木造茅葺きであったのを、管理維持の都合上木造瓦葺き約六坪のお堂にしていましたが、平成二年七月大阪豊中市坂本篤郎氏が私財を投じて新築され、建坪十坪の木造瓦葺きのお堂が完成しました。

〇祭 日 昔から八月二十一日にお祭りをしていました。当時は村中集まって参拝をし、

おこもり堂で赤飯を供え酒盛りがあり、夜店まで出て、大変なにぎわいでした。しかし、現在では婦人の方々が赤飯や精進料理を供えて供養しています。

毎年七月十日法行城の城主末孫の霊地の供養を薬師堂で行っています。その日は元浄光寺住職外に二人の住職の司祭により坂本氏一統と井野尾・岩の本・板木の村から多くの人々が参列して盛大な供養をしています。尚、薬師如来は病の仏で霊験あらたかというので、病人の祈願は夜を徹して行われていたといいます。また、この場所は、巡礼の札所でもあり、前の広場は吉祥山浄光寺の跡地です。現在の畑津の宝泉寺であります。

お大師さま

〇所在地 波多津町辻高尾山

〇祀ってある仏様 弘法大師、観世音菩薩、不動明王、地蔵菩薩、いち目大菩薩

いち目大菩薩は高森プロパンより移されたものです。元高森家は「とまや」と言っていました。漁に出たとき網に石が二回も入ってきたそうです。その石から御光が出ていました。そこでその石を目の神様として高森家で祀っていたものを当社に移された由です。

〇由緒と行事 お大師様は高野山からこられたといいます。

お祭り行事 旧三月二十一日、旧七月二十一日のお昼に講社の人々が分担して花を供え、絶やさないといいます。当番は郷之浦、浦潟、中組、あたご組、野林の順に回っています。また、月に一回晩にまわり番で、当番の家に集まってお経をあげて接待によばれます。さらに、三月(観音様) 、四月(お大師様)、九月(お大師様)におめぐりをします。

お大師堂

〇所在地 波多津町中山字久保田

〇祀ってある仏様 弘法大師

〇由緒と行事 明治三十七年六月横田勝三郎氏によって建立されました。昔は札所になっていました。巡礼者はこの大師堂に一団となってお詣りをしていました。その当時は店などが出ていました。現在(いま)は毎年二回(四月二十一日、八月二十一日)にお祭りをしています。その日は村中の人が出てお詣りをしています。

五穀神さま

〇所在地 畑津捧の木場

〇祭り行事 旧暦八月十五日に五穀神社のお祭りをしていました。畑津の中組の人たち二十人余が集まっていました。その日は他所に出ている人も帰ってお祭りに参加していました。お祭りの日には、集まった人々でかまどを作り酒の酣つけをしました。酒盛りが始まる前にお酒と作ってきたおこわを神殿に供えました。酒とおこわを祭りに参加した人たちに接待をしました。お盆の一か月後だから酒盛りは晩になっていました。お月さんが上がり始める頃酒盛りはたけなわになっていました。おどりなども出てにぎわっていました。雨のときは坂本綱年氏の家で酒盛りをしていました。

現在は公民館でやるようになりました。

この他にも、田代や本辻・平串など、その他の地区でも観音さまやお大師さまを祀ってあるお堂に集まって今でもおこもりをしている地区が多々あります。

第二節 英霊を祀る

一、忠魂碑

今は畑津田嶋神社本殿と並んで建立されていますが、元は波多津小学校上段に、大正七年一月波多津村在郷軍人会が建てられていました。

戦後占領軍の命によって現在地に移転されたものです。各集落においても自治公民館の庭など中心地に忠霊碑を建て、ねんごろに慰霊祭を行っておられます。

町においても、昔と変わらず毎年四月十六日、軍恩会と遺族会の共催で丁重な慰霊祭を行われています。

思えば我らが日々平和な生活をおくることができるのは、全く英霊のおかげであることを考え、英霊に対して、感謝拝礼を怠らず、またそのご遺族に対しても感謝の気持を忘れず、温情親切を以て接したいと思います。

二、戦死戦没者名簿

01
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03
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06
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08
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