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第四章 歴史


第四章 歴史
(2021年11月12日更新)

第四章 歴史

 

  1. 原始時代

一、時代区分

 

 日本にはおよそ四万年前ごろから人類が住みついたのではないかという説がある。そしてきわめて粗雑な打製石器(石材の外側を打ち欠いで作った石器)を使って生活したのであろう。

 

 

 

 

二、先縄文時代

 伊万里地方にも、先縄文時代から、既に人類が居住していたといわれる。それを証拠づけるものはこの時代の石器の出る遣跡が存在していることである。

 わが波多津からは、木場集落の前山遺跡から石刃と石刃核、同集落開田遺跡からも石刃と石刃核、井野尾部落の水溜遣跡からは石刃が出土している。更に考えると、先史時代は一般にその居住は、湿気を避けて日当たりの良い、しかも飲み水や食糧を得るに便利で、また外敵に防衛にも有利な泉・山・川・湖のほとりの台地や、海岸近くの台地に多く営まれていたことからすると、先の三力所は格好の場所ではなかったかと思われる。だから一万年もの昔に波多津にも人類が住んで居たことはまぎれのない事実であろう。

 石器は金属器がまだ出現しない原始時代に、人類が生活していくために、固い石でこしらえたいろいろの道具のことである。

写真三点いずれも実物大である。右の石刃はいたって薄く、いわばかみそりの刃のようにしていて、それで肉を切ったり皮をはがしたりしたのである。左二点は狩をする時の矢の先に取り付けた鏃である。

 石器には材料、作り方、使い方等によっていろいろ種類がある。

 

 

 

 

 

 

 

三、縄文時代

 縄文時代の人類は、石器をしだいに精巧に作れるようになったがそのうえ土器を作って使用するようになった。やわらかい土をこねて必要な形にこしらえ、天日に干して生乾きしたものを、火で焼きあげたものが土器である。

 波多津からも土器が出た。元筒井分校跡北方の丘から石斧・石鏃・磨石といっしょに、曽畑式土器が一片採集された(現在波多津中学校に保管中)。県下では曽畑式土器の出土する遺跡は相当に多いが、伊万里では例が少なく貴重視されている。

 波多津から先縄文時代の石器が出たのは三力所であったが、この時代の石器は前記のほかに次の各地から発見されている。

・煤屋集落穴が坂(あなんさこ)

・木場集落上場元牧場跡

・本辻深浦の供養の辻

・大知木西の前の古屋敷跡

・内野こうじやの裏の山

・しゅうごえの切通し

・飯盛山周辺

これらの出土分布からみても、縄文時代には波多津(波多津に限ったことではない)にもけっこう人が広がって住むようになったものと考えられる。更に深く注意深く探せばあるいはもっと多くの場所からいろいろな遺品が出てくるかもわからない。

 

第二節 地名と歴史

○木場の三十六石

 国道を唐津に向けて筒井を通り抜け三村屋から先の地域は木場所属だが、小字名を三十六石という。更に北進すると橋があってそこまでが三十六石、橋の名前も三十六石橋。橋を渡ればそこの字名は大坪。また橋があって名前が十九石橋、字名が十九石。

 この地名はたしかに大化の改新(六四五年)に実施された條里制の名残りであろう、と原口静雄先生(元伊万里高校教諭)はいわれている。

 筒井集落の岩の本に横沈という地名があるのも同様であろうと。とすれば、千数百年も前のことだから 、木場・筒井はずいぶん歴史が古いことになる。波多津では東部地区が古いことは実証的にわかるけれども、西地区を合わせて全体が郷土のことを調べたり、大事なものを保存したりするように心がけたいものである。

 巻末の町内の小字名地図を参考にして普通のよび名、古い名称などと対照して、いろいろなことを考えてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

第三節 波多氏時代

一、源頼光―渡辺綱の西下と筒井

 一条天皇の正暦二年(九九一)源頼光は肥前守に任ぜられ、当国に西下、渡辺源吾綱もこれに従って松浦の地に下向し筒井村に居館を構えた。 ―「前太平記廿一」 による―

 主従は満三ヵ年ほどこの地に住していた。この間の主従の行動は明らかでないが、その聲望威勢はおそらく近隣に鳴りひびいて後年の松浦党の基盤をつくったものというべき、その後綱の子孫がこの地に繁栄したのはこの時からであろうと察せられる。綱は帰京後三十一年、万寿二年(一〇二五)七十三才をもってなくなったが、綱の子、久は筒井源太夫と称し、父の居館筒井に住した―北波多村史― しかし、これらの人名・年代等にはそごする点も多く今後の研究が必要である。

 大江山の酒てん童子を退治したという伝説の剛勇四天王随一の渡辺綱が筒井に館を築いた。その子孫が松浦党の祖となり威勢を松浦の地にふるったとあるからには、真偽は別にしても明らかにする必要がありそうだ。

 

二、波多氏の起源と岸嶽城築城

 藤原氏専政時代の末期は国司・郡司の退廃がその極に達し、威令は全く行われず、各地に凶徒が群立しても鎮撫することができなかった。このようなびん乱の世に、所伝によれば第七十一代後三条天皇の延久元年(一〇六九)渡辺綱の曽孫源新太郎久は、肥前国松浦郡宇野の御厨検校(御厨とは神宮への貢進上納を司る役所であり、古は各地に在ったが、後にはそれが地名となった)となり、検非違使(警察官兼裁判官の如きもので貴族や武士の登竜門)に補し、従五位下に叙せられ、源太夫判官と号し西下して今福の加治屋城に居を構えた。ここで久は初めて松浦を称し松浦源氏の祖となり、松浦・彼杵・壱岐・鷹島・福島・山代・有田等の広大な土地を領有し名実共に松浦党の領袖となった。

 久の次男持は波多郷の領地を分封され岸嶽の要害に拠り、初めて波多氏を名乗り波多氏隆盛の基礎を築いたのである。岸嶽城の築造はおそらく久安年間(一、一五〇年前後)であろう。

 当時の城というのは、今日唐津城などでみるような何層やぐらの堂々たる威容を誇るものではなく、簡易質実を旨としたきわめて小規模なもので、天然の地を頼みとして僅かに木柵・土塀・小規模な石垣等の臨時的な施設を設けたに過ぎず、居館もなく、天然の要害を利用した山城であった。

 かくして波多持が岸嶽に築城して以来四百余年間、十六代三河守親に至るまで、上松浦の宗家となり威勢をふるうことになる。

 

 

 

三、波多家の滅亡

 日本のいわゆる戦国時代を平定天下統一の大業を成し遂げ、今は飛ぶ鳥も落す権勢並ぶものない豊臣秀吉が、征韓のため名護屋に本陣を定めた。この地は波多三河守の所領であった。本陣をここに定めるについては腹臣寺沢志摩守に命じて事前調査も十分させた上、交渉をさせたのであるが、三河守は領内民百姓のことも思い秀吉の気に入るような返事をしなかったらしく、先には秀吉の博多到着出迎え遅参のことやらもあって、秀吉の胸中には既に波多家改易―寺沢を後に封ずる考えがあったともいわれる。波多氏は兵二千を引きつれ鍋島直茂の旗本として出征、大いに戦功を挙げて文禄三年(一五九四)二月帰還したのであるが、意外にも海上において黒田甲斐守より秀吉の命が伝えられた。すなわち名護屋に船をつなぐことを禁じ、直ちにその所領一円は没収し、身は徳川家康に預けるという過酷きわまるものであった。

 波多氏改易(かいえき)(お家とりつぶし・領地没収)については、いろいろの資料にその理由が記されているのでどれが真実であるか明確でないが、秀吉としては既定方針従ったまでで、罪状などは罰せんがための口実に過ぎなかったであろう。また諸書に三河守の内室秀の前の不首尾を書いているのもあるようだ。

 岸嶽本城に三河守の災厄の知らせが伝わるや、城内は挙げて驚き家臣すべて馳せ参じ前後策について大評定が開かれた。この事は松浦拾風土記の中に詳細に書かれている。とにかく過激派・自重派に分かれて大論争となった。しかるにそれを聞いた秀吉が怒って「三河守の罪科はきまって配流しているけれども、その跡のことはなにも沙汰していないのに騒いだり城を離れたりするとは言語道断だ。近々に城地受取りに来るからそれまではよく城を守っておれ、勝手に行動する者は捕まえるぞ」と厳重な申し渡しがなされた。そして間もなく城受取りの使者がきて岸嶽城は明け渡されたのであった。

 三河守は常州の配所から家臣に迎えられた一度は岸嶽に帰ってみたが、今は一同離散して誰も居ず、追手の眼を恐れて点々としている間に、下松浦の地で不幸な生涯を終わったという。

 第一代源次郎持からかぞえて第十六代目三河守親まで四百有余年間、上松浦に君臨した波多家はここでまったく廃絶したのである。

 

四、波多家と波多津

 波多津という地名は古い記錄の中にはあまり出てこない。畑津と書いたのが普通のようである。だから地名の上で波多家となにか関係があって例えば波多家の外港だったから波多津とつけられたのではなどと考えたがいまのところその根拠は見出せない。始めから終わりまで波多氏の領土であったことにはまちがいない。

 波多津には、岸嶽本城の出城がいくつも築かれている。ということは波多津は岸嶽本城にとって重要な位置ということであったろうか。それも考えられぬことではない。

 

・板木法行城

 松浦古事記には、古家周防守築くとあり年代不詳。

波多三河守災厄の時は、久家玄蕃橘扶度が城主で八百石を領していた。

 また当時同城には久家祐十郎橘扶源(百石)も居たとある。右と同族であろう。

家臣の中では高禄の方であるが、この地が相当に重視されていたからであろうか。唐津藩になってもこの村は板木組大庄屋の所在集落となるが、その名残りでもあろう。

 写真は庄屋屋敷跡から撮す。

 石垣は後えいの人が築いて慰霊の設備をされるとか―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・筒井城後城

 松浦古事記に岡本山城守が、人皇六十二代村上天皇の天暦三年(九四九)に開いたとある。また同年中に山上十五左衛門も開いたとあるが、山代守は波多氏の近親で重臣にあたるので実際の仕事は山上氏が担当したのであろう。

 城は山城だが頂上には簡単な石垣が残っているという。

 写真は田嶋神社の北側水田から撮した。

 波多家没落の時は居城者がなかったのか記名がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・鶴田太郎左衛門の墓標

 鶴田氏は三河守悲運の時、五百石を領して筒井村在村との記録がある。

 墓は城後山の中腹にある集落の墓地内にあったというが、数年前その後裔の鶴田家当主 が累代墓をつくるため開墓されたところ多くの副葬品が出土したという。墓標はその墓の跡に菩提寺宝泉寺住職が書いて建てられたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・御嶽城

 松浦古事記に久田五郎築くとあるが年代不詳。

この山は波多津を一望の中におさめる高山で町の中央に座しきわめて重要な位置にある。

 波多家没落の頃は、畑津平内藤原清和が三百石を領して城主であった。また当時畑津左京藤原清貞も無禄でこの城に居た。

写真は井野尾から撮したもので山の中腹左側に黒くみえるあたりが城の跡である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・無名塔

 波多家没落後、家臣たちはちりじりに離散していったが、波多津にも相当数の人が来たに違いない。それらはいずれも悲憤悶々のうちに日を送り、なかには世を恨み、人を恨んで死んでいった人もあるだろう。

 その墓を建ててもらった人はよい方、道ばたにのたれ死にした人は石を幾つか積み重ねて岸嶽末孫の墓、身分ある人は名前も入れぬ五輪塔か板碑など、哀れな末路ではある。しかし波多津はどの墓にも花を手向け合掌するのがならわしであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第四節 唐津藩政時代

一、藩政時代の概要

 慶長三年(一五九八)豊臣秀吉薨じ、同八年(一六〇三)徳川家康江戸幕府を開き、以来二百六十五年間明治に至るまで、天下万民ことごとく徳川の威光になびき封建社会の世となった。松浦地方も波多家没落後は寺沢志摩守広高が代わって旧波多領を支配することとなり、唐津城を築いて第一代藩主になった。

〇波多津は唐津藩の領土となり、法行城、城後城、三岳城も廃城されて秋風落莫の感切なるものがあった。やがて組の政治 組織がしかれると板木組配下に板木村・津留村・主屋村・中山村・田代村・井野尾村・筒井村・木場村・湯の浦村・杉の浦村が入り、畑河内組配下に内野村・畑津村・辻村が入り(馬蛤潟が村として独立村となるのは後年)、煤屋村は黒川組に入った。

〇唐津藩は寺沢民以後藩主の交代が頻繁に行われ、藩主の度々の転封による多額の出費と、山間僻地の多い領内では産業も振るわず、蕃財政も苦しく、その負担は常に領民の双肩に負わされ時には誅求の苛政に苦しんだこともあった。

 

二、唐津藩主歴代

 (領主)            (期間)             (禄高)

寺沢志摩守藤原広高      慶長二~寛永十(三十七)       十二、三万石

同 兵庫頭藤原堅高      寛永十~正保四(十四)        八、三

御 公 領(江戸幕府直轄)

大久保加賀町藤原忠職     慶安二~寛文十(二十二)       八、三

同 出羽守藤原忠朝      寛文十一~延宝六(八)        八、三

松平和泉守源乗久       延宝七~貞享三(八)         七、三

同 和泉守源乗春       貞享三~元禄三(四)         七、〇

同 和泉守源乗邑       元禄三~同四(一)          七、〇

土井周防守源利益       元禄四~正徳二(二十二)       六、〇

同 大炊頭源利実       正徳三~元文一(二十四)       六、〇

同 大炊頭源利延       元文二~延享一            六、〇

同 大炊頭源利里       延享二~宝暦十二(十八)       六、〇

水野和泉守源忠任       宝暦十三~安永四(十三)       六、〇

同 左近将監源忠弼      安永四~文化二(二十九)       六、〇

同 和泉守源忠明       文化二~文化九(六)         六、〇

同 左近将監源忠邦      文化九~文化十四(七)        六、〇

小笠原主殿守源長昌      文化一四~文政六(六)        六、〇

同 壱岐守源長泰       文政六~天保四(十)         六、〇

同 能登守源長会       天保四~天保七(三)         六、〇

同 佐渡守源長和       天保七~天保十一(五)        六、〇

同 佐渡守源長国       天保十二~明治一(二十九)      六、〇

同 壱岐守源長行       安政四~明治一(九)         六、〇

 

三、庄屋制度

 寺沢志摩守が旧波多氏領を嗣いで唐津藩主になると、まず波多氏の残党取締りに心胆をくだいた。哀れな末路で波多氏が没落したことは、志摩守のざん訴によるものであると家臣領民は信じていたから言動にも不隠当なところがみえたのである。そこを見抜いて志摩守は、波多氏家臣の中から由緒正しいものを抜擢して庄屋とし村每に一名ずつを住まわせた。

 領内およそ百七十か村(今日の大字)を三十七組に分け、組毎に惣庄屋(のちに大庄屋)一名をおきその組を総括させた。

 庄屋はその村の一切を采配し、惣庄屋はその組中に不都合なことのないよう指導監督の義務があり、もし百姓中に一人でも不届者が出た場合は、その村の庄屋・惣庄屋共に連帯責任を負わねばならぬ定であった。庄屋には屋敷と居宅が与えられ、それに庄屋料があり、惣庄屋には納米の中から役料として米百石が給せられた。

 寺沢氏によって始められた庄屋制度は、その後度々改革もされた―大久保氏時代には庄屋の交代制がはじまったなど―。しかし基本的なことはそのままに明治初年度廃藩になるまで永続した。

 なお志摩守は領内巡検の際、百姓一般に直接訓示をしているが、その時は村中残らず集合させられていた。村中からは迷惑の声が強かったので、あとでは百姓の中から相当の名望のある者を選び、名頭という役を設けて百姓一般の代表とし、御用の節は名頭が出ていって承わることになった。これから名頭が始まった。

 

四、農民対策

 検地とは、土地の広さを測って面積を出し、その土地一枚一枚の上・中•下を定めることであるが、これには必ず石盛(一反当り米の収穫率)を石高(その土地からの收穫高)が付きものであり、石高が年貢を賦課するときの基礎になるのである。だから検地はごく厳密におこなわれ、たとえ半坪以下の広さでも、石盛は一合一勺でもゆるがせにしなかった。

 

慶長年間に行われた唐津藩の検地は左のとおり一。

 (石 高)

 松浦郡の内 六万三千三十二石四斗六升七合八勺

  右のうち……物成―年貢

 松浦郡の内 三万二千四百五十五石七斗五升三合

  そのほかに……小物成―雑税 六十七石六斗九升五合

 農民からの年貢は收穫高の半分以上五一%強

 同・・・・・・・・・・雑税は・・・・・・・・・・・一・一%強

すなわち五公五民の重税であったのである。

 元和二年(一、六一六)の検地になると

  石高    六万六千五百十五石一斗七升四合

  新検地高  八万二千四百十六石四斗一升六合

  差引    一万五千九百一石二斗四升二合

新検地では波多氏時代にくらべて四分の一に近い二四%の増加をはじきだしたのである。このように過酷であったため、石盛の高い田を持つ百姓で手不足な者(ほかに理由もあったか)は、田を無料で譲った上に金や酒を添えて他に渡す者さえでてきたのである。この元和検地が農民に与えた影響は相当大きかったとみえ「松浦記集成」は次のように書いている。

 「右石高に引合せ打出高余計相増し、百姓難渋の時来り免(石高に対する年貢の比率)、石盛高く、反米莫大に進み、凡  そ日本国中に類例無之程之由、既に田畑竿詰り(田畑を図る時の竹尺を短くして面積を広く出すの意)の上、嶮岨の山畑の永続ならざる場所、或いは荼・桑・楮までも、畑年貢の外に高入、皆出来より年貢償候故、豊作にも作得無之、平年作□□□取続き兼ぬる村方多く有之、格別差迫りたる村は田拾□□□燐愍無之ては取続き不相成、故に波多家仕来の旧恩を語り続き、□□□の世変を残念に思はざるはなし、是れ波多家貴賤の微運、天道□□□しかくものかと思ふは下賤の常、天を恨みず、人を咎めずとは士以上の事、愚昧の輩は諭しがたく、小吏の力等にて何そ及ぶ処ならんや、嗚呼命哉」。 (注、記録不詳事項は□□で表現する)

訴える所なく、頼る所なく、如何なる難渋も欠乏も「嗚呼命なるかな」と、自らあきらめるよりほかに仕方なかった百姓の境遇は察するだに哀れである。

 百姓の貧困はいわゆる藩財政の貧困を物語るもので、藩の財政のほとんどを農に負う藩としては、いきおい農村振興、増産に力を入れなければならぬことは当座の急務であり、志摩守は検地後しばしば領内を巡視し、百姓に対して直接「用地水、水口、来世に至るまで相違無き様仕候事」などの具体的な事項を示達してこの励行を督促した。さらに領内の庄屋待遇にも改善を加え権限を保持させて、百姓どもの取締りを強化させた。

 黒川新田の干拓工事の時は、志摩守自ら每朝暗いうちに起き、馬を飛ばして七里の道をかけつけ、仕事始めの時間から人夫を督励して工事の進捗をはかったという。

(土井周防守による馬蛤潟新田干拓の記録を、町の現状篇農林業の耕地の部掲載)

 

 

五、主屋文書

 之は唐津藩政時代の農村事情を物語る材料として貴重なものであるが、出所が主屋の旧庄屋太田勇吉家から現在その一族市丸伝造氏に引継がれ所蔵されていたところから主屋文書とよばれているものである。

 内容は藩政時代に板木組とばれたその支配下の、津留・主屋・中山・板木・田代・井野尾・筒井・木場・

湯の浦・杉の浦各村(現大字)の概況を記録したものである。

 この度は全部集落を掲載できないので他日を期し、大庄屋の配されていた板木だけを左に掲げ若干説明を加えたい。

 

板木村

 

一高  百八十一石七斗五升四合

 畝数 十一町六畝七歩

  反別

 石盛  二石六斗七升代

  上田 二町一反四畝二十歩半

     分米 五十七石三斗一升七合

 石盛  二石七升代

  中田 二町一反四畝九歩半

     分米 四十四石三斗六升三合

 石盛 一石四斗七升代

  下田 三町二反一畝六歩

     分米 四十七石二斗一升六合

 石盛 八斗七升代

  下々田 一町四反二畝一歩半

     分米 十二石三斗五升八合五勺

 石盛 二石七升代

  増中田 二畝十四歩

   分米 五升九合五勺

      田数メ 八枚九反四畝二十一歩半

      分米メ 百六十一石七斗六升四合

 石盛 一石四斗五升代

  上畑 二反十五歩

     分米 二石九斗七升二合

 石盛 一石一斗五升代

  中畑 二反十六歩半

     分米 二石三斗六升三合

 石盛 八斗六升代

  下畑 九反三畝二十六歩

      分米 七石七斗

 石盛 六斗代

  下々畑 六反六畝二十五歩半

      分米 四石一斗五合

 石盛 二石六斗四升代

  屋敷 七畝三歩

      分米 一石八斗七升

      畑屋敷畝メ ニ町八畝二十六歩

      分米メ 十九石一升

 一歩に付 一升二合

  下紙木 八歩

      分米九升六合

 一歩に付 九合

  下々紙木 二歩    分米 一升八合

 一歩に付 一升八合

  上茶 四歩      分米 七升二合

 一歩に付 一升二合

  下茶 一畝二十二歩  分米 六斗二升四合

 一歩に付 九合

  下々茶 十三歩    分米 一斗二升二合

         紙木茶メ 二畝十九歩半

         分米メ 九斗二升八合

           付札に但四合御検地帳寄算違

  中桑 一本      分米 二升八合

 一本に付 一升五合

  下桑 二本      分米 三升

         桑メ 三本

         分米メ 五升二合

 田畑屋敷木物成

  畝数合 十一町六畝七歩

 高合 百八十一石七斗五升四合

  内 三石三斗八合   永川成

  畝数 下々田 三反八畝一歩

 石盛 八斗七升代

一高 四斗四升六合   新溜下半高引

   畝数 二畝六歩半

   此訳

  石盛 二石七升代

   中田 二畝     分米 四斗一升四合

  石盛 一石四斗七升代

   下田 六歩半    分米 三升二合

    小計 三石七斗五升四合

    畝数 四反七歩半

 残高 百七十八石

 

    畝数 十町六反五畝二十九歩半

 

一口米 御物成米 一石に二升宛

夫高 百七十六石一斗三升一合

一米 二石六斗四升二合  夫米但高に一歩五厘掛り

一米 四升        樹木代大庄屋上納仕候

一銀 三匁五分二毛    真綿代銀にて上納仕候

  此真綿 二十匁六分  但百匁に付銀十七匁替

一銀 四匁        漆代

一銀 七分一厘      雉子御運上

一銀 三分五厘      小鳥御運上

一銀 二分        旅出○御運上

一溜五カ所        但郡中掛り

  内

 字谷口一カ所  御田地九反八畝に掛る用水溝長七十四間

 字浦の谷一カ所 御田地五反四畝二掛る用水溝無

 字長谷一カ所  御田地七反に掛る溜より川に落川より用水溝三百間

 字通り谷一ケ所 御田地一町五反に掛る用水溝無

 字松ノ尾一カ所 御田地七反に掛る用水溝無

一井磧六ケ所

  内

 字こぶたーケ所 御田地六反一畝に掛る用水溝無

 井野尾村の内字白木一ケ所 御田地二町一畝に掛る用水溝長二百四十間

 字上幸井手一ケ所 御田地二町三畝に褂る用水溝長四十六間

 字長谷ロ一ケ所 御田地六反三畝に掛る用水溝長七十四間

 字西ノ上一ケ所 御田地七反二畝に掛る用水溝長百三十六間

 字人津里一ケ所 御田地八反五畝に掛る用水溝無

一川三ケ所

  内

 一ケ所 本川田代村より流出申候

 一ケ所 小川中山村より流出申候

 一ケ所 小川当村より流出申候

   但洪水之節は御田地水入に罷成申候

一家居根山二十九ケ所

 

  内

 一ケ所 村山

 一ケ所 寺山

 四ケ所 神山

 二十三ケ所 百姓家居根山

一 人数百四十五人 内 八十三人男

            六十二人女

一 家数二十六軒

一 馬数十八疋 内 一疋男   一牛数六疋 内 五疋男

          十七疋女          一疋女

一 かしき並牛馬飼料の草村中にて伐来申候

一 御年貢米並大豆小豆取立之節は納三斗俵に仕唐津御蔵え納申候節は二十俵或者三十俵四十俵之内より

  一俵宛廻俵御取被  成百姓外にて向霜降搔落に斗り三斗三合にて三斗入に納申候若欠立申候得は

  其俵数に欠米指申候自然升違等にて八九合一升程も欠立申候得は其節御 断申上其俵斗に欠米申候廻

  俵之儀者別俵を出申候

一 御年貢米唐津御蔵納之儀陸付下仕候得は道法四里十八丁郷蔵より行合野船場迄積出道法二十七丁夫

  より川船にて廻船路五里船一艘に付二十六俵積人足四人乗せ遣候但納人足共に運賃船一艘に付米四升

  宛天気能々御座候得者其日仕廻夜に入罷帰申候道筋大庄屋切手にて遣申候

一 役高之儀相勤候高引高等帳面指上候通に御座候

一 早稲〇者大庄屋改にて帳面差上候不作にて大検見相願候節は書上之籾高目録に書ロり御改節譬御切手

  御座候共早稲〇之畝数に者掛り不申候もっとも早稲之内皆損有之節者御手代衆御出没御見分相済申候

一 村々土御免之儀三ヶ年土御免二御定被下候田方不作にて土御免合毛に取合不申候節は御検見御願申上

  御見分口上御引方被下候もっとも大検見小検見村方より願出候随被仰付小検見相願候節増高之場所は

  地畝共に立毛損毛之割御引被下候

一 田方立毛損毛之節一歩之籾二合九勺迄は皆損より相唱御見分之上御見捨被下候増高之場所者地畝半高

  御引被下候

一 田畑被損仕候節者御改之上高御引被下候増高之場所は地畝共に被下候

一 溜井磧井樋用水溝御田地破損其外諸普清人足其村之百姓十五歳より六十歳迄之内罷出得申候者之分

  日数五日相勤其餘は御領分より越夫人足にて御普清被仰付候

一 新切畑一毛作之分百姓勝手次第に相開御年貢之儀者従前之御免にて御座候

一 大庄屋給高二石其年之御免にて被下候御扶持米之儀は其年之毛付高に一厘掛りにて被下候

一 役高百石大庄屋為役料と従前之被下候六歩掛にて役米六石組中にて割合清取来申候

一 本夫五十人先年より大庄屋へ被下来申候尤組合に割賦仕無賃にて使い来申候

一 種子米御蔵より御出御借被成三割利足を加之上納仕候

一 夫食拝借仕候節者無利足にて被仰付候

一 御年貢米不足仕候節者御救米被下其外無利足拝借等被仰付候

一 百姓農具入用之鍛冶炭何方之御林にても御願上前々より焼来申候村山家居根山にては無願焼来申候尤御

  運上不仕候

一 大豆納米一石に付大豆一石三斗宛小豆納米一石に付小豆一石二斗宛

一 御膳米納候節は撰欠米一俵に付一升宛被下候

一 薪納八束に付代米五合宛但二尺に廻近村之御林にても御願上伐採申候

一 長尺薪八束に付代米七合五勺宛長二尺に二尺廻伐来候儀右同断

一 鍛冶炭納一石に付代米二升宛御買料は代米五升宛伐来候儀右同断

一 蕨縄納一束に付代米九升宛御買料は代米一斗宛

一 大中細縄納一束に付代米八合宛御買料は代米九合宛

一 山茅納六束一駄に付代米五合宛御買料者代米一升二合宛

一 麻 納一貫目に付代米二斗宛

一 畳菰納一畳分に付代米七合五勺宛菰数大小五枚

一 小麦藁納六束に付代米五合宛

一 茅苫納上苫捨枚に付代米四升五合宛中苫拾枚に付代枚三升五合宛下苫十枚に付代枚二升五合宛

一 籾納一石に付代米五斗宛

一 藁麦納一石に付代米五斗宛

一 勝 納百束に付代銀二十五匁宛

  小麦納三斗に付代米二斗宛

一 草 納百束に付代銀五匁宛

一 渋柿納三斗に付代銀一匁宛

一 歯朶納十二束に付代銀一匁宛

一 竹箒納め百本に付代銀二五分宛

一 萩納八束に付代銀一匁宛

一  首家茅納八束に付代銀一匁宛

一 御用人足積出人足百人迄者一日一人に御扶持米納五合宛其餘は日雇人足一日一人に銀九分宛被下候

一 御用炭木伐下し竃建人足御割賦之通指出一日一人に御扶持米納五合宛被下候

  右下諸代米御物成御勘定に御指紙被下候

一 御用材木伐申候杣扶持米一人に付一升宛被下候下より雇候 外に賃米三升宛郡中より役高にて割合出申候

一 遠見番給扶持米郡中より夫高にて割合出申候

一 井樋掛樋之類郡中掛之分雑用郡中割にて出申候大ユ木挽一日賃金一人に付一匁二分扶持米一升四合

 

  七夕郡中にて出申候

 右入用並溜井磧川筋水除ケ御田地囲諸普請竹木之儀御用木之内並御林御田地囲山にて御願申上候えは

  御渡被下候無運上

一 御厩入草一疋に付敷 1ケ月に三十束但三尺廻籾糠一斗五升飼葉六俵何れ代米無しに相納申候

一 村々土御免之儀三ケ年土免に被仰不作之節者大検見御願申上御免にて御引被下候格別不作之節は

  土高御用捨御仰被下候

一 土御免除三ケ年御用捨御手当之上難渋之年柄は別段に春仕付御用捨御願申上候得ば御手当被下候

一 村々共に新田畑之儀御帳面指上三ケ年或は場所に寄五ケ年御物成御捨免被下其上別免に被仰付候

一 御普請所土取所畑跡の儀増高御免被下田に仕候其所損毛之説者畑高御引被下候

一 村々共に庄屋方へ其村の百姓無足人迄年中に三日宛前々より来よ遣来申候

一 村々共に百姓家作事之時分材木所持不仕者は御林にて御運上差上御願申上伐採申候

一 村々御用木之儀者帳面指上候通に御座候御船宮御用に御伐被成候得は元木代被下候

一 御田地囲諸請人足御割賦之通役高にて出申候御扶持米無尤普請相重り及難渋に候節者御扶持米被下候

一 村々御高札場並郷蔵庄屋いえ修覆之節入用の竹木御林又者御用木之内にて御願申伐採申候無運上

一 村々共に新仕立山の儀銘々主に被下候

一 諸用に付旅行仕候節は御断申上御切手申受参申候

一 宗旨御改毎年三月に御奉公御廻村にて人別血判御取被成候尤家内之分は二月頃御手代衆御出血判御取

  被成候幼少の者は親代血判仕候十月者人別印形並寺判取帳面差上申候

一 人別御改之儀年中に一度四月に御改被成候

一 出入人の儀御他領之分御願申上御領内者大庄屋限家届申候

一 村々田畑に猪鹿当り申候時は御鉄砲拝借仕無玉にて威申候

一 大庄屋宅内外修理の儀一切組村より致来申候

一 新屋度御願上御検地之節家新建仕候上御届申上候後は本間下之分斗御検地被仰付候

一 御茶屋御高札場大堤並井樋等御作事方より御修理御用御使被成候日雇人足一日一人に付代銀九分宛

  被下候屋根 師者一日一人に付賃金一匁二分宛被下候

一 御作事方御修理御用にて御役人衆御出之節御用夫差出申候

  一人一日に五分宛御扶持米被下候

一 郡御奉行様御原鑑一枚兼て御渡置被成候諸御役人様御出郷之節御賄並人馬差出印鑑し為に御座候

一 領土分様方御用にて郷中に御出被下候節は御賄之儀一賄に付上三十文下二十文宛被下候

尤御賄方都て一計一菜にて御座候

一 右以下之御役人衆御足軽衆御用にて御出郷被成候節は賄札御持来被下候後は引合御賄仕候宅賄三合或

  は二合勺御扶持手形受取御物成御勘定継に相成候後は近年は旅籠銭其度々御払に相成候に付先規の

  通後勘定継に相成候様御願申置候

一 旅人当時滞在之儀は大庄屋限り承届置長召置は御願申上来候

一 在々叺諸職人之儀本職人行届不申節は勝手次第に召使来申候

一 急用事にて近国罷越為に板往来一枚兼て御渡置被下候何方へ罷越候節者庄屋添切手仕候て申候尤組合

  村々共に一枚宛 御渡御座候

一 御年貢米皆済以後百姓方より米出申候節は庄屋道切手にて出申候尤組中皆済不相成内は大庄屋道

  切手にて候所々皆済以後は百姓勝手次第出申候

一 大庄屋庄屋共に持高御田地之分御役者其村中より従前々相勤来申候

一 庄屋百姓家居根竹木共に御免被下入用之節は勝手次第に伐採申候売申候節は御願申上伐申候無運上

一 庄屋に数廻普請入用之竹木村山家居根山にて従前に組中共に伐取申候

一 神仏山之内其堂宮修理之節は入用次第伐採申候売申候節は御願申伐来申候無運上

一 孝心定実其外格別農業出精之者は御褒美被下候

一 貧窮にて出生之子養育相成兼候者には歳々御救米被下候春秋両度取調御願申候

一 七十歳以上近親類迚も無御座窮民へは御救米年に一俵宛相果候迄被下候八十歳に相成候老人江者米 

  一俵宛被下其上御  酒御吸物被下候

一 類焼之者には人別米一俵宛被下其上小屋掛入用竹木之儀最寄之御林にて御渡被下候其外風水等にて

  潰家に罷成危難の節は是又御救米被下候

一 「組中鴨蹄御運上之儀者年に入札仕高札之所に被仰付何方よりも殺生仕来申候尤御運」上銀之儀者

  翌月上納仕候

  「但鴨捕出御用立節相納申候時は鴨一番に付銀七匁宛御運上銀に御差継被下候」

  (此項半分抹殺されたり〇印之残る)

一 御用御○状組継村並継荷物御役所御差継を以て送申候

 

一 田嶋大明神一ヶ所 宮守徳須恵村社人

  祭禮十一月七日  但茅  堤伊勢預り

一 天神社一ヶ所

  祭禮十一月七日  但茅  同人預り

一 八幡社一ヶ所

  祭禮十一月七日  但茅  同人預り

一 天神社一ヶ所   宮守安藤陸奥預り

  祭禮十一月七日  但茅

一 本寺黒岩村医王寺 禅宗曹洞派吉祥山 浄光寺

 

 

   板木村より所々道法

一 大手御門迄   四里十八丁   寅の方

一 徳須恵村迄   一里十八丁   卯の方

一 行合野村迄   二十七丁    辰の方

一 畑河内村迄   一里        牛の方

一 小黒川村迄    二里余      未の方

一 畑津村迄     二十八丁   申の方

一 切木村迄     二里       亥の方

一 上平野村迄    二里       寅の方

一 主屋村迄    四丁      己の方

一 津留村迄    五丁      己の方

一 中山村迄    八丁      未の方

一 田代村迄    八丁      亥の方

一 井野尾村迄   十三丁     戌の方

一 筒井村迄      二十六丁    戌の方

一 木場村迄    一里十四丁   亥の方

一 杉野浦迄    一里十五丁   戌の方

一 湯野浦迄    一里五丁    戌の方

 

○検地による板木村の田は上・中・下・下下田合せて八町九反二十一歩半、畑は上・中・下・下下畑と屋敷を合せて二町八  畝二十六歩半、合計十一歩六畝歩。昭和四五センサス経営耕地調べと対照してみてほしい。

○石盛は米一反当りの基準収穫量、田、畑別、評価段階別に収穫量を出してみてください。それが分米になるのですが……。屋敷の田えの換算が上田より三升低い二石六斗四升、昔から屋敷は一等田並ということ……。石盛が当時一ばん高かったのは筒井の二石八斗一升、近隣では北波多山彦村の四石六斗五升が群を抜いている。

○課税対象となるものに、紙木(下等の楮八歩、下下楮二歩)茶の木、桑の木三本などとあるのに驚く。

○未来の制  持衆が知行所の百姓を勤番につれていくので、一同大いに迷惑をしていたが、改革され、別に雇入れの賃米(課税総高の一歩五厘)を差上れば勤番に出なくてもよいようになった。

○樹木差上のこと 百姓所有の山林立木の調査台帳を備えつけておき、御用しだい差上げるようになっていた。しかし村によって立木の多くある村と、無い村があるので、今後は村の大小にかかわらず、代わりに村々から米四斗を納めるように改められた。

○田の不作の時は係役人が実地検査のうえ、一坪の籾収穫高が二合九勺までは無收穫として年貢免除、また田畑破損の時は実地検査の上それぞれ割引があった。

○年貢米は唐津城下の藩倉庫に納入する定で、納入の際は二十俵ないし三・四十俵の中から一俵を取出し、これを百姓舛で計り、三斗三合を一俵三斗入りとして計算し、若し之に不足があった時は、その不足量を全俵数を掛けて得た量を補充しなければならなかった。

○年貢の輸送は板木村から行合野の船着場まで陸上二十七町を運び、それから川船で廻航路五里を下って城下に着き、好天気ならばその日のうちに納入を終え、夜に入って帰着した。運送費は廻船一艘につき二十六俵積、人足四人乗りで、米四升ずつの定めであった。

○庄屋の諸所得  大庄屋給として高二石を年貢上納米の中から、また扶持米はその村の毛付立(作付面積)の一厘を給せられた。板木村の諸控除を終わった後の総高百七十八石に対する、十町六反五畝二十九歩半に完全に作付けされたなら、一斗七升八合が庄屋の扶持米となる。ほかにある大庄屋役高百石のうち、六分すなわち六石は役米として組中の庄屋へ配分し、残り九十四石は大庄屋の所得であった。

○大庄屋は人夫五十人を無賃で使用することができた。それは組中の村々に割当てて使用した。(省略)庄屋宅内外の修理は一切村中より行うことになっており、普請に要する竹木は村の山から勝手に伐り取ることができた。

○貧困救済  年貢米や、食糧不足の時は、藩庫から無利息で借用することができた。種子米が無い時は、御蔵米から借用することができた。この時は三割の利息を加へて返納しなければならなかった。貧窮して生まれた子どもを養育することができない者は歳々御救米を賜った。

七十才以上の者で近親者をもたぬ窮民には、御救米を年々一俵ずつを死ぬまで賜わった。八十才の老人には一俵と御酒と御吸物を下された。

火事の時類焼者には人別に米一俵賜わり、その上小屋掛入用の竹木は最寄りの藩林から伐採を許可された。その他風水害の危難に遭った者にも御給米を下さった。

○米と他の物との比率  米一石につき、大豆は一石三斗、小豆は一石、薪納めは一束の長さ二尺周り二尺のもの八束につき米五合ずつ、長薪は七合五勺。近村の御林でお願いの上伐取ることができた。鍛冶炭納は一石につき代米二斗ずつ、御買料は代米二斗五升ずつ、百姓農具用の鍛冶炭は願い上げのうえ無運上にて焼くことができた。その他縄、麻芋、畳菰、茅苫、そば、小麦、小麦わら、厩草、糠、飼葉、渋柿、しだ、竹箒、萩等数多く挙げられている。

○人足賃金  御用人足、積出人足、日雇人足等々多くの人足の賃金がきめられている。

○人改めに関すること  いろいろの用事で旅行する時は届出て切手を申し受けること。領内の旅行は庄屋まで届け出ること。急用で旅行する時は、かねて渡されてある板往来と庄屋の添切手を申し受けて出ること。その他……。

○宗旨御改は毎年三月に御奉行が村々を廻って人別に血判を取り、家内の分は二月頃手代がきて血判を取り、幼少の者は親が代わって血判し、十月に人別印形ならびに寺判取帳を差出す規定であった。

 

 

 

 

六、唐津領惣寄高(波多津関係)

 これは唐津藩領内の元和検地(元和二-一、六一六)にもとづく、各組支配下各村の田畑高(年貢米算出の基礎資料〜生産責任量)と、田畑の面積、石盛(田の評価段階に応ずる反当収量)を掲げている。なお石高(波多氏時代の検地)も合わせて掲げてあるので、対照してみると、元和検地の過酷さがわかる。

 主屋文書では板木村の分だけしか取りあげなかったので、他の村は板木を参考にしてこれをみれば、自分の村がおよそ理解できるものと思う。

 家数・人数・氏神・寺院・牛馬その他も現在と対照してみれば興昧ある話材が生まれるのではあるまいか。

 

 

   黒川組

 

 煤屋村

一田畑高 二百四十三石五升     石高 三十石七斗五升 

  畝数 二十五町九段五畝十五分  石盛 田二石七斗ヨリ三斗迄

     新田共二            畑九斗四升ヨリ二斗迄

  家数 二十九軒           人数 百四十二人

     一軒に四人九分         内 七十六人男 六十九人女 

  氏神 九郎大明神

     掛り福田村坂口守人

  牛  十一疋 馬 二十疋

 

 

   畑川内組 

 

 内野村

一 田畑高 二百八石六斗五升五合   石高 百四十七石六斗二升五合

   畝数 十五町二段二畝八歩半     石盛 田二石六斗ヨリ一石迄  畑一石二斗ヨリ三斗迄

   家数 五十一軒         人数 二百七十人

      一軒に五人三分         内 百五十六人男 百十四人女

   氏神 天満宮祭禮十一月十七日

      徳未 堤出雲

   牛  六疋 馬 六疋

      威鉄砲一挺

東本願寺未寺光月山法徳寺開基寛永十六己卯年 空圓法師

 

 畑津村

一 田畑高 三百石七升       石高 百五十八石四斗七升四合

   畝数 十五町八段一畝九歩     石盛 田二石三斗ヨリ七斗迄 畑二石ヨリー石一斗迄

   氏神 田嶋大明神 畑津 同浜 辻高 馬蛤潟 四ケ村宗廊也

      祭禮十一月五日

   牛  四疋 馬 三疋

   黒岩村医王寺未寺白永山宝泉寺開基王淵和尚文禄四乙未年

一 田畑高村二籠ル 但シ四十七石五斗三升四合也

  日高夫 七百五十二人 石船四艘 漁船三十五艘 天當六艘

  諸網十一帖 鰯網 八帖 御運上銀百五十目

  家数 百五軒          人数 四百八十人

     一軒に四人五分七        内 二百七十七人男 二百人女

  氏神 本村に有り

 

 

 辻村

一 田畑高 二百四十八石九斗七升六合 石高 百七十三石六斗

   畝数 二十三町六段四畝六歩半  石盛 田二石五斗ヨリ七斗迄 畑一石四斗ヨリ7斗迄

   家数 五十九軒         人数 二百七十七人

      一軒に四人六分一      内 百五十二人男 百二十人女

   氏神 畑津村に有り

   天當 二艘 牛 八疋 馬 五疋 鉄砲二挺 但猟師筒

 

 

 馬蛤潟新田

一 田畑高 四百九十七石九斗一升   石高 ナシ

   畝数 二十二町九畝二十五歩半  石盛 田二石三斗五升ヨリ八斗迄 畑三斗四升ヨリニ斗迄

   氏神 本村に有り 牛 三疋 馬 三疋

 

 

   八板木組

 

 板木村

一 田畑高 百八十一石七斗五升四合  石高 百二十九石五合

   畝数 十一町六畝七歩      石盛 田二石六斗七升ヨリ八斗七升迄

                      畑一石五斗五升ヨリ六斗迄

   家数 二十二軒         人数 百十四人

      一軒に五人一分八          内 六十人男 五十四人女

   氏神 田嶋大明神

      祭禮十一月七日 徳末 社司

   吉祥山浄光寺禅宗曹洞派本尊薬師之像 牛 三疋 馬 六疋

 

 主屋村

一 田畑高 五十石一斗八升五合     石高 二十石三斗八升九合

   畝数 三町四段一畝十歩      石盛 田二石三斗八升ヨリ五斗八升迄

                       畑一石一斗七升ヨリ三斗迄

   家数 十三軒           人数 五十五人 内二十七人男 二十八人女

   氏神 田嶋大明神       

      祭禮 十一月十一日 徳末 社司

   牛 十一疋 馬 一疋

 

 津留村

一 田畑高 六十五石九斗八合     石高 二十七石三斗一升六合

   畝数 三町六段二畝二十一歩   石盛 田二石七斗四升ヨリ九斗六升迄

   家数 八軒                畑一石六斗ヨリ七斗迄

      一軒に五人八分八       人数 四十七人

    牛 十四疋 馬 一疋

   氏神 天神社 祭禮十一月十一日 徳末 社司

 

 

 中山村

一 田畑高 二百六十石七斗四升三合  石高 百八十五石五斗五升六合

   畝数 十四町六段八畝十一歩   石盛 田二石三斗五升ヨリ五斗五升六合迄

                      畑一石一斗一升ヨリ九斗二升迄

   家数 二十九軒         人数 百三十人

      一軒に四人八分         内 七十五人男 五十五人女

   氏神 山神社 祭禮九月十九日 社司 右同断

   牛  七疋 馬 三疋 威鉄砲一挺

 

 

 田代村

田畑高 百二十二石九斗六升     石高 八十三石四斗四升七合

   畝数 七町一段五歩半       石盛 田二石五斗七升ヨリ七斗二升迄 畑一石六斗ヨリ七斗迄

  家数 十七軒            人数 七十八人

     一軒に五人五分         内 四十八人男 三十人女

  氏神 山ノ神 祭禮十一月八日

     掛り御城内 安藤

   牛 五疋 馬 五疋

 

 井野尾村

一 田畑高 二百四十一石二斗二升   石高 百五十一石五升一合一勺

   畝数 十三町八段三畝二十五歩  石盛 田二石二斗ヨリ八斗四升迄 畑一石四斗

                      ヨリ六斗迄

   家数 三十三軒         人数 百五十七人

      一軒に四人七分六        内 八十八人男 六十九人女

   氏神 山王権現 祭禮十一月六日 社司 右同断

    牛 十八疋 馬 十三疋 鉄砲一挺 威筒

 

 筒井村

一 田畑高 五百五十二石一斗四合    石高 三百九十六石三斗六升八合

   畝数 二十八町六段八畝三歩    石盛 田二石八斗一升ヨリ一石一升迄 畑一石七斗ヨリ七斗迄

   家数 五十軒

      一軒に四人二分二        人数 二百十一人

                     内 百二十人男 八十九人女

   氏神 田嶋大明神

      祭禮十一月十一日 掛り御城内 内山

    牛 十八疋 馬 七疋 威鉄砲二挺

 

 

 木場村

一田畑高 四百十七石六斗六升三合    石高 二百三十七石九升三合

  畝数 二十五町八段七畝十八歩半   石盛 田二石七斗ヨリ九斗迄 畑一石ヨリ五斗五升迄

  家数 三十六軒           人数 百五十二人

     一軒に四人二分二          内 八十五人男 六十四人女

  氏神 大島大明神

     祭禮十一月十一日 掛り御城内 内山

   牛 十八疋 馬 七疋 威鉄砲二挺

  氏神 田嶋大明神

     祭禮九月十八日 御城内 戸川

     若武王尊 天正十八年寅二月建立 大石村 一乗坊

     熊野十二社権現 天正十年二月隈崎庄建立大石村一乗坊

     清水山西雲寺浄土宗元禄六年西暦1688年 熊連社湛誉上人開基ノ由

   牛 二十七疋 馬 六疋 札威鉄砲二挺

 

 

 湯野浦村

一田畑高 二十一石四斗六升七合    石高 十五石三斗四升九合

  畝数 一町五段二十四歩        石盛 田二石八斗ヨリ一石迄 畑一石六斗ヨリ六斗迄

  家数 二十二軒          人数 百十四人

     一軒に五人一歩八         内 五十九人男 五十五人女

 

 

 

 

 

 

 

 

第五節 明治以降

一、唐津藩知事時代

 

慶応三(一八六七)一月 明治天皇尾践祚。

    十月 徳川十五代将軍慶喜大政を奉還し、徳川幕府二百六十五年、鎌倉幕府以来六百八十二年の武家

       政治がわり、天皇親政の古にかえる。

  四年九月 明治と年号が変わり、明治維新の新政が始まった。

明治二年正月 薩・長・土・肥の四藩率先して土地・人民を天皇に奉還、諸藩もこれにならう。これによって

       諸大名は華族に列せられ、諸藩は政府の直属として、従来どおり大名を藩知事とされた。

      〇唐津藩は第五代小笠原長国が版籍を奉還して子爵を賜り華族に列せられ、引続き藩知事に任ぜ

       られた。藩知事は新たに藩政庁の組織を整え、諸役人に対しては善政を行うよう、次々に多く

       の布達を出した。

       そのうちの一つ

         (藩知事の御直書)

 百姓共へ教訓ならびに取あっかいのことは、先日書付にて申達置候通 支配地の民百姓共饑え凍ゆるの

 悩なく銘々その住居に安堵いたさしめんと願う処なり 元百姓は年中暑さ寒さのいといなく骨折して 

 上へ貢物を納め公役をつとめ 老いたる者幼き者を養い 生業の営み暇なきは 全く上へ納め物多きと

 公役の繁きとに本づくと我ら深く心を痛め惨まし居る折から 朝延より是まで辛きならわし悪き仕来り

 を御改めなさるお沙汰なるにつき如何にも右の苦しみを解き遣したく候えども 思うだけはくつろぐを

 得ず 先ず左の通り向後ゆるめ遣す。

   一、諸役所役高納物を品々ゆるす

   一、厩納飼葉草藁共ゆるす

   一、諸中間村出銭を免ず

   一、林山番をゆるす

   一、村遠見番をゆるす

   一、竹買入は相応の価にて買遣す

   一、竹貴旅出品に依てゆるす(旅出は移出)

   一、漁民共漁旅出をゆるす

  右の条々この度ゆるし遣すに付 銘々田畑の作り物に心を尽くし 怠りなく老いたるを養い 幼き者

  を慈しみ 悩み煩うものは哀れみ抉け 尚暮し向にあまりある者は 親類組合 を相互に救い 義理

  つよく情深く人の人たる道をよう教へ諭し申すベく候也。

     明治三年十二月  知事

  前に書いた藩主の農民対策にくらべてなんという違いであることか。なお民百姓らに朝廷の御仁慈を

  知らしめるよう努めていることと、封建制度の名残りを止めることばが多く使われていることにも

  気付くのである。

   その頃庄屋を廃して里正・伍長(くみちょう)が置かれているが、波多津のことは資料なく今後の

  研究にまつほかない。

   さて唐津藩は、中央新政府の指令にもとづき各種の改革を断行していったが、その場合庄屋の寄合

  である「一統評議」が百姓参加という陰の力を背景に、大きな影響力をもって百姓 有利の方向に進め

  られていったという見方もある。

 

二、行政区画の変遷と庶政の刷新

明治四年 七月 廃藩置県の詔下り 全国二島百十三藩が新たに三府七十二県となった。

     八月 今の佐賀県には当時佐賀県・唐津県・小城県・蓮池県・鹿島県が置かれた。この月 

        散髪令・脱刀令が出され身なり服装の上でも大きく変わることになる。

    〇九月 佐賀県庁を伊万里に移す。唐津小城蓮池鹿島各県も廃して伊万里県に属し、新編成による

        厳原県も含むものである。伊万里では仮庁舎を円通寺に置き、その他万端を整えて大いに

        将来を期待していた。

         またこの月戸籍法を発布して新戸籍の編成を始めた。

  同五年五月 伊万里県を廃して佐賢県となし県庁を佐賀へ移す。伊万里の県都はわずか九か月で夢と

        消えた。

     八月 学制が頒布され教育の諸規定も定められた。

    十二月 旧来の藩札はことごとく新貨幣と交換させることとなり、県や出張所で着々と新円交換が

        行われた。

 この月 徴兵令が施行され、翌六年一月から県内の壮丁は熊本鎮台に入営することに

 なった 

          また同月 大陰暦を廃して太陽暦を採用された。

  同六年一月 郡区政の大改革を行い、郡を区に改められた。

  同八年九月 三岳小学校、大平小学校が開校した。

  同九年四月 佐賀県を三潴(みずま)県に合併したが松浦郡・杵島郡は分離して長崎県に所属させ、次

        いで藤津郡も長崎県に合併させた。

         しかし八月 三潴県が廃止されたのでいまの佐賀県全部は長崎県に移管され、肥前国

        全部が長崎県管下に入った。

明治十一年七月 郡区町村編制法公布されて大小区制廃され郡を単位として合成区政を定めた。

     十月 松浦郡を分けて東西南北の四郡とし、旧唐津領のうち波多津・黒川・南波多・大川・は

        西松浦郡に編入された。

   同十二年 県会議員の選挙が行われ、初の県会が開催された。同じく郡区町村法が実施された。

 同十六年五月 長崎県より佐賀県を分立し(当時の郡―基肆・三根・養父・神埼・佐賀・ 小城・東松浦

        ・西松浦・杵島・藤津)、県庁を佐賀市に置く。新政発足以来変転し続けていた佐賀県は

        漸くにしてここに安定したのである。

   同十八年 中央政府の組織に大改革を加え、太政官を廃して内閣を置いた。

同二十一年四月 町村政発布

同二十二年二月 大日本帝国憲法が発布され立憲政治の基本が確立した。

 

〇土地制度

  明治元年十二月、新政府は、土地の「百姓持地」確認を公布し、四年には「田畑勝手帳」を公布して

 何を作ってもよい、五年には「土地永代売却禁止令」の解除等をなし、極端に所有権を制限することは

 一応解消された。

  しかし租税に関しては当分の間旧慣によると布告した。

  同五年土地の所有権を確認する「地券」を発行、一方田畑宅地や山林原野の調査を終って、「名寄帳」

 「土地台帳」を整理して地券を廃し、今まで各藩各県毎にまちまちだった課税率を全国的に統一し、

 納税はすべて金銭を持ってなすこととなった。

 

 明治維新以後、各種の組織制度等実に目まぐるしく旦つ複雑に変転していったが、自治制誕生を望む声

はしだいに強くなった。