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第一章 地名「波多津」の由来


第一章 地名「波多津」の由来
(2021年11月12日更新)

第一章 地名「波多津」の由来

 日本の古代末期、西暦一〇〇〇年ごろから著名な文学作品や歴史物語が作られていますが、その中でも「源氏物語」はさん然と輝き世界的に有名でありましょう。

 その影響を受けてか、約百年ぐらい後、藤原道長・瀬通など平安貴族の生活を物語風に書かれた「栄華物語(栄花物語)」がありますが、その本が出版されたとみられるころの康和四年(一一〇二)九月二十三日付肥前国源久(松浦党の党祖)処分状案(石志文書)に

処分 三男源勝宛給田地事

(中略)

船山  四至 東限大川野道貴志多気 西限八田津越道 とあり、八田津(はたつ)と書く。

 その後百数十年経過した文永六年(一二六九)七月二十日付の源留(松浦党第二代党主)譲状案(伊万里文書)に「武末名(中略)波多道里二坪壱段参杖」とあり、同じく正中三年(一三二六)三月七日付、源勝(同第三代党主)譲状案には「一所同国やたけ並はたつの浦の田畠屋敷山野等」とあります。

 中世後期には波多氏が上松浦党の首領として波多郷の岸岳城に拠ったが、文禄三年(一五九四) 波多氏は滅亡してしまいました。

 それから数年後は歴史に残る慶長の時代となり、このときの慶長絵図には「波多津」と記名されており、文化(一八〇四〜一八一七)年中記録によれば、

「畑津村」―「畝数十五町八段一畝九歩」とあります。

 今迄の経過の中で、八田津・波多津・畑津など歴史的な年代を踏まえてのはたつの名称は地名として生きていますが表現は異なっています。明治二十二年(一八八九)の町村制施行の際、畑津ほか、十三ヶ村が合併して大岳村と命名し発足いたしました。

 しかし明治三十三年村会議決で歴史に輝いた党主・波多氏にちなんで波多津村と改称されました。

火山岩が噴出してできた三岳(二三三・五m)は岩石採掘で姿を変えつつありますが、戦国期に畑津城と呼ばれた城跡があり町の中心となっています。

 それと関連して、「松浦古事記」には、波多三河守の家臣の中に「一、畑津平内藤原清和 畑津御岳城三百石」とあります。

 波多津の地名はこのように我が国の古代末期から約九百年の歴史の中に「はたつ」の地名として表現され、永い政治史や生活史の中に生きてきたものです。