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第十章 集落史(井野尾)


第十章 集落史(井野尾)
(2021年10月21日更新)

井野尾

一、井野尾の現状

 井野尾は伊万里市の北部、南東方向に流れる行合野川に沿う集落で、交通の要所でもあります。

 現在は、農協出張所に関連施設も完備(農産物集積所、共乾場、農産物出荷所、農機具材倉庫、ガソリンスタンド等)、販売部で日用品まで販売しています。

 集落の前方に三岳を仰ぎ、その清涼雄姿に感動を覚えます。

狭隘な田地を努力して活かし、小規模ながら米作を主体に、麦作、豆作をし、副業に肥育牛の飼育、蔬菜類の「ハウス栽培」に励んでいます。

 主たる米作が減反で収益が減り、農業は兼業として若手の会社勤め等によって生計を保っています。集落の田地面積の狭小な上に減反で米作ができないことは残念なことです。

 田地狭小の訳は、大昔御岳(嶽)の火山活動で噴出した土砂が流れ込み多数の谷間ができ、その地を開田したので狭小田となったと考えられます。町内で狭小田の一番多い地区であり、労多く手数はかかりますが、地区民の努力によって米の収量は通常平均量が収穫できています。

二、井野尾地区の歴史

 慶安元年(一六四八)幕府領、同二年から唐津領板木組に属していました。元和検地時は、中川左近の知行地で、村高は二〇三石余、文化年間頃の田畑高二四一石余、畝数十三町八反余、家数三十三軒、人数一五七人(男八八人、女六九人)、馬十三頭、牛十八頭、鉄砲一挺、威筒一挺の記録があります。

 「井野尾」とどうして呼ぶようになったか、資料もなく確かではありませんが、御岳の裾野、長尾に「清水の元」「清水郷」と呼ぶ小字があります。古老は「清水の元より「清水郷」の地下に湧き出る清水は無尽蔵である」と言っており、良質で多量なことは近郊に知れわたっておりました。昔は飲用水不足の年には遠く上場からも担桶で汲水にきていたようです。

 こうした清水を飲用し、御岳を仰ぎ、裾野を開田して豊かな村となるようにとの願望から、「井野尾」と呼ばれるようになったと推察しております。

 清水郷の水量の多いことは、田中酒造の米磨水を大木箱で運んでいましたが、しばらくすると、前どおり溜って、いっこうに減らなかったと聞いております。

 井野尾は、昔から農業が主ですが、その間稼には、男は苫・藁細工、女は木綿細工、近世では、和紙漉き(白保・範紙・京華紙)をしていました。製紙は労多く利益の少ない仕事ですが、雨の日も出来るという利点がありました。しかし、今は誰もやっていません。

三、水利について

 天正年代ころの井野尾村の田地畝数は、十三町八反余、水利は四か所の溜池により五町歩余を灌水し、五か所の井堰(いせき)により七町余りに灌漑(かんがい)していたようです。昔の灌漑用(かんがいよう)井堰(いせき)は、井野尾本井堰=加倉川と筒井川の合流した水を貯水し、必要量を灌漑。横枕井堰=筒井川水を筒井と井野尾と共同で灌漑。

上原井堰=筒井川水を筒井と井野尾と共同で灌漑。板原井堰=筒井川水を井野尾前田の権現原に灌漑したもの。黒田代井堰=井野尾川水を黒田代に灌漑したものでした。

 昭和五十六年土地改良事業(圃場整備)と河川改修(全長両岸)を並行して造成した為に水害も免れることになりました。水利良好となったので堰の数も少なくなり、現在では井野尾本井堰、横枕井堰、黒田代井堰の三井堰で灌漑できるようになりました。

 また、井野尾には大坂谷に大溜池があり、二回嵩上げした為に以前の倍以上、六万tの水量を有するようになりました。前田の分は水不足の心配は解消しましたが、山田については出水に頼らざるを得ず、依然として早魃の年には水不足となります。

 当地区は飲料水、灌漑用水ともに恵まれていると思います。昔、当地区では大方の家が製紙をやっていましたが、製紙には先ず水が大切で、清水で漉いた紙ほど光沢があると聞かされていました。自分の手漉き紙の仕上りを見て、水の大切さを実感したものでした。

四、橋梁について

l裏ノ川橋=向通り道へ架橋されていました。橋と言っても長角の「石橋脚」の上に板石を載せた低い橋で、水位が一米もあがれば渡れなくなりました。後に堤防の上に大丸木を二本渡し、その上に厚板を載せ、手擦りを付けた丸木橋を渡っていました。

l境道橋=境道への橋も、川面より一米余りの高さに長角の石板を積み上げた橋脚に板石を載せた低い橋で、大雨の時は渡れないので、田代迂回で子供の頃通学していました。後に橋が流失したので丈夫な石橋に架け替えられ便利になりました。

l通り谷橋=中山へ通じ、南波多、伊万里方面への交通が便利になりました。

いま、一つひとつの橋に、地区民の願いと努力のあとが偲ばれます。

五、伊万里市農業協同組合井野尾出張所

l昭和十二年十二月 波多津村産業組合第二事務所設立

           後に木炭販売所、製紙組合、精米所を併設

           産業組合第二農業倉庫建設(井野尾鳥居原)(建築年不詳)

           後に現農業倉庫地に二度建替えられ現在の倉庫となる。

           第二事務所も二度建替えられ、現在は名称も伊万里市農業協同

           組合井野尾出張所となりました。

六、記念塔とまつり

l古川喜和人翁記念塔   翁は修験者として弘法大師お巡りを発起、お巡りの大先達を

務められました。また、夏祈祷も翁により執り行われました。記念塔は大正十四年八月建立。

l弘法大師講       毎月二十日夜、家回しで御詠歌を唱え参詣(さんけい)しています。後、茶菓の接待を受け語らい合っています。婦人がほとんど。

l弘法大師めぐり     大先達(巡礼の先頭)古川喜和人、先達 古河熊五郎・田中

駒吉・井本東三郎・市丸徳右衛門・奈良崎敬太郎・高田幸作・田中米倉

l太宰府天満宮飛梅講社  全戸が講社員、昔は五人組で一泊し参拝していました。

l祐徳稲荷神社参拝    正月に一泊して旅館の温泉に浴し憩いの一時を楽しみとしています。

l鬼火たき        正月七日に門松飾を焼き、餅を焼き厄除とし焼餅を食べます。

lもぐら打ち       正月十四日、子供達は初嫁の尻叩きに行き接待を受けます。

l初午祭り        甲城稲荷社に参り、五穀豊穣、家内安全を祈ります。

l苗代ごもり       五月には苗代拵えをし、苗代ごもりをして豊作を祈り家内

繁昌(はんじょう)を祈ります。

l諏訪神社参拝       籾蒔(もみまき)の後参拝し五穀豊穣、家内安全を祈ります。

             宮前の飲食店で鯖豆腐、蒟蒻を雑多(ざつた)煮して全員で飲食し満喫。

             「浜崎けいらん喰わねば帰らん(けーらん)」と言って、けいらんの甘さ

を又満喫したものです。

lさなぶり        田植が済んだ後日、田植祝と加勢の方々への慰労を兼ね宴を盛ってお礼としました。

             若者は青島田嶋神社参拝に小型船を仕立てて、楽しい船遊びもしていました。一つには、若者の田植慰労でもあったのです。

l七夕         盆前の七日、朝早く露を採って来て、その露を墨汁と成し、色紙に書いて笹竹に吊し庭先に飾り、盆の前日には川に流しました。

l二十六夜待ち      八月二十六日の夜中に三岳に登り、中腹(昔城があったところだろう)で月を拝み、その後二十七、八日組々で祝宴。現在も続いています。

l夏祈祷         田植えが済んだ後日(できるだけ近い日に)部落民全員の無病息災を祈願し五穀豊穣も併せて祈願します。

l盆踊り         二十四日地蔵菩薩祭りの時、青年男女、婦人会、子供が合同で大きな輪になり、音頭取、句節歌、歌謡に合わせて踊ります。昔は、笛、太鼓、鉦を打って音頭に合わせていました。(鉦は

             供出(きょうしゅつ)されて現在は無い)

l秋祭り(くんち)    氏神を祭り来客を饗なす。部落の祭日は十一月六日でした。

l亥の子         初亥の日「亥の子餅」を搗き、子供達は全戸の家を回り石搗きをします。特に初嫁の家では、力いっぱい搗きます。(初嫁が良く坐るようにと)その後で接待を受け、餅を貰います。貰った亥の子餅の分け方法(かた)は、歳の順に数も順々に一個ずつ多少に分けます。少なく貰った子供も、来年は多く貰えるんだからと喜び、賑やかに楽しんでいました。

七、娯 楽

 春先や秋口には、浪曲や芝居が、他の地区よりずっと回数多く催されていました。

 浪曲では、初代天中軒雲月師(十五・六才)、梅中軒鶯童、春日井梅鶯、寿々木米若等々の巨匠が来井され、熱演に魅了されたものです。特に初代雲月師のときは、日本一の浪曲を聴こうと、地区の娘達は、髪結いから衣裳揃えと大忙しだったと聞きます。近郷から多くの聴講者がきて、雲月師の美声を満喫したと伝えられています。

 また地区民は根っからの芝居好きで、中でも真の愛好者は、一人で来演の契約をしてきて、「さあ、芝居だ、仕事を止めて芝居の用意をしてくれ」と、地区の婦女子を困惑させたこともありました。しかしそこは芝居好きの地区民のこと、忙しや嬉しやの思いで、重箱・十人弁当箱・酒等、楽しく用意して芝居見物に間に合わせたそうです。来井された多くの役者の中でも、名匠市川海老十郎(八十五才)の立舞には、多くの人が感銘を受けたと聞きます。

 こうしたことで、井野尾には、芝居の小道具の屋台・建具・花道・格子戸・潜り戸・垣根・燭台・行灯・垂幕・中幕等、一通りはいつでも間に合うように用意してありました。昔は娯楽といえば、浪曲・芝居ぐらいでした。

八、波多津東部医院井野尾診療所

 明治の中頃から井野尾村にはお医者さんが居られたようです。初めは木場山の高田為蔵家の上段の屋敷のようですが、数年後には同じ木場山で地区の中央付近に、更に移転して現公民館前の元庄屋の離れ座敷を改造して診療所とし、診察治療に勉めてもらっていました。初代は分かりませんが、お医者さんの氏名を記載しますと、

 ○渋川市治郎   一見近寄り難い人のようでした。

 ○平川七三郎   趣味は川魚取り(投網)、七面鳥飼育と多才な人。

 ○田原  匡   先生は週に一回位の診療で、目立った記憶はありません。

 ○坂本又次郎   気軽に何時でも「ハイ、ハイ」と早速来診してくれる親切な先生で近

          郷の人からも親しまれていました。

 ○坂本  栄   誠実懇切、親身になって診療に尽くしていただきました。

 ○山田 茂實   南波多原屋敷から何時でも乗馬での往診、名物先生で親しまれてい

          ました。

 ○岡村 三夫   軍医を勤めた先生は質実剛健、一見近寄り難い面もあったが、真は

本当に懇切親身に診療していただきました。

 ○世戸 篤信   七山村から来ていただきました。元々伊万里の世戸病院と親族。誠

心誠意地域医療に尽され住民から信頼されていました。

 ○今村 守屋   先生は波佐見出身。とにかく勤勉で、苦学成った努力家でありました。

          お父様の協力もありましたが、診療の傍、兎を飼って研究に当り、医学博士号を取得されました。誰にも気易く親切で、オートバイでの往診が思い出されます。現在唐津で開業されています。

 ○泉田 行男   医療には誠実懇切、住民の信望も厚く感謝していました。現在は東長崎で病院を開業。

 ○今村 信雄   先生は東部診療所最終の医師でしたが、人格円満。誠意を以って尽していただきました。地元からの要望で帰郷されましたが、住民挙って(こぞって)

          感謝しています。

九、井野尾駐在所

 昭和二十一年一月五日設置されました。昭和三十四年九月、井野尾駐在所が乙種となり受持ちが波多津駐在所と統合され、昭和三十六年六月井野尾駐在所は廃止となりました。