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第六章 教育・文化・民俗(民俗)


第六章 教育・文化・民俗(民俗)
(2021年11月12日更新)

四、民俗

(1)食文化

〇懐かしの食べ物の四季

 元日の朝は起こされなくても、雑煮のおいしそうな匂いが鼻をつき、早く食べたくてとび起きたものでした。父が汲んでくれた若水で顔を洗い、この朝ばかりは必ず家中揃って食卓につきます。雑煮の中味は牛蒡と毘布と白菜、それに餅が入っていました。歳の晩から作られた大皿の煮染め、刺身、数の子、煮豆、干し柿、蜜柑等も出てきます。

昼頃になると親戚の人が集まってきます。餅寄りです。同じ年頃のいとこたちが寄ってきますから、大声をあげて歓迎の一騒動、遊び疲れた頃はご馳走もでき上がりますので、おとなも子ども一緒になって大宴会、それは楽しい賑やかなふるさとならではの正月でした。

正月の雑煮がそろそろあきた頃、十四日節句、もぐらうちがやってきます。この日は、はなぐり餅をたいて神佛に供え五穀豊穰を祈願します。これは小豆飯の上に餅をのせて炊きあげます。

三月の節句はひな祭り、女の子の節句です。フツ餅(よもぎ餅)をついて菱形に切り、おひな様や神佛に供え、心身ともに健全な成長を祈り、家族中でお祝いをします。菜の花ずしや貝の吸物、()を使った和えものなどを作ります。

端午の節句は男の子の節句で昔はちまきを作り神佛にお供えしたものです。五月五日の子供の日で祝日になりました。

田植えが終わると、さなぼりにけいらん饅頭をつくり、手伝ってくれた人や、近所にも配り田植えが終わったお祝いをし、また、豊作の祈願もします。

お祝い事があると必ず押し出しずしを作りさかい重という大きな重箱に二段、三段とつめて贈ったものです。現在でも、祝事、佛事には押し出しずしを作ります。

お供日は新米を氏神様に捧げ、天地の神様に感謝する日です。昔は十一月二十三日がお供日でした。親類、縁者、知人を招いて赤飯(おこわ)、甘酒、酢和え、のっペ汁等でもてなしていました。その頃になると、田の水がいらなくなるので、一斉に堤の栓を抜いて水を落とし堀干しをします。干しあがった堀からは、フナ、コイ、ウナギ、ナマズ等たくさんの魚がとれます。それを皆で分けて持ち帰り、フナのこぶ巻きや野菜と煮しめたりして 供日のごちそうになっていました。その頃では、これ等の川魚が重要な蛋白源となっていました。

今では川魚とりもなくなりました。休日などに他所の人が車を乗りつけ釣り糸を垂れているのをよく見かけます。(ウナギは買えば高価なのに、また、ビタミンAも多く含まれて栄養もあるのに、もったいないなあ)と横で見て通り過ぎることもあります。昔から土用うしの日はウナギを食べる風習がありますがビタミンAを多く摂り夏バテを防ごうという昔の人の知恵です。

かつて、農家では、朝早くから夕方おそくまで農作業をするために自家で生産した、小菱、小豆、そば等を使って団子や、うどんや、だご汁等を工夫して作り、間食や夜食にしておりました。小麦粉に芋を切ってこねまぜて作る石垣だご等なつかしい味となりました。麦を香ばしくいり上げてひき臼でひいて粉にしたこうせんも子供の頃は楽しいおやつでありました。どれを取りあげても、昔の人の食生活への知恵が偲ばれます。

(2)衣文化

〇着物の思い出

昔は一般に木綿の質素な衣服が主で、(はた)のある家が多く、農家では棉の栽培から機織まで自家生産されたものが使われていました。

明治後期の晴着は絹織の黒やグレーの(めくら)(じま)で、髮は丸髷、桃割れが一部に残り、男児は丸刈で着物や服の上に白いエプロンがおしゃれ着でした。

大正から昭和へと、養蚕が盛んになるにつれ絹布も織られ、先染で縞・格子(こうし)・市松模様に、白地は京染で、晴着が作られていました。夜具も、面・布ともに自家生産のもので作られていました。婦人の髪は、二百三高地とか呼ばれる型が一部に結われ、男性は丸刈から長髪へと移行しはじめました。

昭和の初め頃までは、集落の中に日本髪を結わえる人があって、結婚式には素人による丸髪が、高島田より多く、綿帽子も用いられていました。式服の裾模様は一部に使用されるだけで、手織の白絹に太めの丸紋を染め抜いた黒留袖が多かったようです。

葬儀には、近親者だけが喪服として、白や薄色の無地の長着、神だ髷という髪型、綿帽子の風習も一部に残っていました。

結婚式の高島田、角かくし、ごく一部の振袖打ち掛け、大きな裾模様の留袖が定着した頃戦時となり、男子は国民服、女子は二部式モンペにひっつめた髪となりました。パーマは此の頃まで入っていませんでした。

学校は、昭和にはいって男女共洋服が着られ始めていましたが、祝祭日には和服の場合袴をはいていました。女子は、平常日にも五年以上はえび茶の袴をつけ、髪は低学年がおかっぱ、五、六年以上がおさげや三つ編等になりました。

婦人も洋服が着られるようになり、簡単服と呼ばれたワンピースが、家庭着から外出着へと発展していきました。

仕事着は、半纏にタッチと呼ぶ下ばき、もも引、脚絆。女子は黒衿の半纏、腰巻、前掛、手甲、脚絆、足は男女共あしなかが用いられ、次第に地下足袋へと移っていきました。(みの)じんぱちがさが雨や日よけに使われました。めじり袖の半纏は主なものでありました。

主婦会、処女会(青年団)が組織されてから、外出着には会服(団服)が羽織に代わって使用されました。

防寒用として、ケット、マント、綿入半纏が子供用に、男子用がマント、とんび、引きまわし等、ねじり半纏綿入れ半纏は女子も使用しました。

昭和十二・三年頃、金子主婦会長の指導で(奥村五百子女子考案とも言う)袴式のモンペが奨励され、しごきやおたいこが姿をひそめ、手持の和服がそれに変えられていきました。その後もモンペは次第に改良されて、全国的な型となっています。

漁家の特徴として、ドンザが重宝(ちょうほう)されました。

昭和三十年位までは、手持ちの和服を染め替え、型打染め、洋裁等、各自古着の更正を主としていましたが、全国的には差はなくなってまいりました。

(3)住文化

〇住居

この家は今も実在し二年ぐらい前までは人が住んでいました。障子紙が貼ってあるところは座敷は八畳間という造りが普通でした。棟の両端には家の中で焚くいろりの煙の出口がありました。白い障子の前面は巾三尺長さ二間半の縁で、その下には卵を産む鶏や、小学生が兎をよく飼っていました。

萱葺き屋根は萱原、原野にかこまれた波多津地方民家の昔からの自然な姿でした。お宮もお寺もそうでした。写真の家は明治維新頃の建築といわれていましたから 撮影当時百年は既に越していたわけです。しかし屋根の葺替えや補強は何回かなされたことと思います。

屋根の構造が大屋根だけで(ひさし)がないのは、当時でも多くはありませんでした。なおこの家は昭和五十七年には葺替えの萱が入手できず、惜しみつつも瓦葺屋根に改造されました。

写真を見ると縁の下に、巾の狭い板を間をすかして打ちつけてあるのが見えますが、普通あの中には地鶏が飼われて卵を産んだり、小学生が兎を飼ったりしていました。

縁の外周りの白い線は、サッシ窓を取りつけてあるのでした。屋内に白い障子が見えるのも、当時人が住んでおられる(しるし)でした。

白いトタン板の下の暗い場所は、家の出入口ですが、雨除け板が光を遮って暗くしています。

前記の家の中は外見が質素なのにふさわしく、間かずも少なく飾りなどもなく単調でした。おおかたの家は座敷に床の間と仏間が取られ、朝夕食時前には必ずおまいりされていました。

(4)波多津の女すもう

(1)起源

相撲甚句には「遠い昔に大閣が、朝鮮出兵された時、戦勝祝賀のその折に、生まれましたるこの力士」と、四百年の昔から波多津の女相撲があったように言われるけれども、裏付けとなる資料は見あたりません。

はっきりしていることは、明治三十年代以降、塚本留造氏(明治十一年-昭和四十三年、漁業)が、前記の起源伝承を信じて、波多津女相撲の復活再現を生涯の目標として掲げ、自らの努力と関係者すべての協力を受け、力士とともに練習と忍耐の年月を重ね、大衆の前に公開されたのは、大正十一年十月十五日、天野房太郎医師の頌徳碑の除幕式の折でした。

この日こそ、みんなが認める波多津女相撲の復活再生の第一歩でした。

(2)神社奉納の記録

第一回公開以後の女相撲は好評で、しばらくは神社奉納が続きます。

集落の産土(こと)刀比()()神社(じんじゃ)春季大祭、四月十日同神社境内において奉納。

村社田嶋(たしま)神社(じんじゃ)への奉納 十月十七日秋の大祭(おくんち)この日はおみこしが鎮座地畑津集落から、当集落まで約一キロ御神(おみ)(ゆき)がありお旅所(たびしょ)で休まれる。その広場で奉納される。この神社奉納もだんだん減少して近年は殆んど行われなくなりました。

(3)相撲甚句

相撲甚句は元来余興で歌われるものですから、即興的な明るい内容のものが多く、形式も七・七・七・五・と決っていても、字餘り字足らず平気で調子よく歌いまわしています。

記録に残された古い甚句も見つからず、豊臣秀吉の歌いこまれた句は、ごあいさつの中の「遠い昔に大閣が、朝鮮出兵された時…」の外にはありません。

町内には今左の甚句がありますが、流行歌や民謡等に押されて、ふだんには歌う人とてありません。

ごあいさつ 終戦    新生日本

木挽(こびき)うた  川ずくし  夢

祝の松   山集め   三匹の犬

西行法師  島ずくし  波多津名所

花あつめ  嫁入り   稲川女房

(4)相撲踊りと取組との先後

波多津では甚句と踊りは同時に組合わせて行われます。踊りの所作は「日本相撲協会の大相撲放映の時の、力士の土俵入りと大体同じ所作」で、それに女らしさの手の上げ下げがつき、甚句に合せて行われる踊りらしからぬ踊りです。

取組は踊りがすんでから、東西の割にしたがって下位の者から順にとり進んでいきます。

●波多津の女相撲衰退

〇大型造船会社の誘致によって、漁業者の職業転換となり、浜浦集落に元気がなくなった。 〇世情、趣味嗜好娯楽の変化により、女相撲など関心をひかないようになった。

〇現在は港まつり等で祭りのイベントの中で行われている。

五、風習

〇昔の祝儀(いまはけっこんしき)

昔の祝儀は大抵の場合見合いをして意にそえば仲人を立てて嫁もらいをしました。仲人は何回も足を運び嫁をもらい受けていました。そこで縁談が成立しますと、直ちに両家の親と本人・仲人の間で固めの盃が汲み交わされます。その場で仲人は祝儀の日取りを決めてもらいます。それこそ善は急げです。できるだけ早い大安吉日の日を選んで祝儀の日が決まります。茶のもの(紋付)は婚家の紋を入れて作製されます。

祝儀の挙げ方も現在と異なり婚家で挙げていました。また花嫁衣装は紋付綿帽子姿でした。嫁入りは仲人の先導で歩いて行くのでした。そのため中宿といって婚家の近くに宿をとっていました。主に花嫁の衣装直しや休憩の時間をとるためでした。婚家に着く頃は婚家の前庭では炬火を焚いて迎えていました。

仲人に続いて花嫁は戸口から入ります。花嫁が入ると同時に花嫁は釜蓋被せを受けます。つぎに茶の間に上がると姑様よりお茶を受けます。そして仏壇の前へ通され、ご先祖様へ報告参りをします。

それから、花嫁は本座につきます。

花嫁方・花婿方の本客が座に着いて婚礼は始まりますが、進行は相伴人がつとめます。仲人の挨拶で始まって三・三・九度の盃を交わし(夫婦盃・親子盃)めでたく婚儀が成立するのです。引続き祝宴となり本膳が一の膳から五の膳まで出るのでした。主膳で餅の入った料理がでます(一生もちますようにという縁起かららしい)。二の膳から五の膳もそれぞれ目出度いものばかりが料理されて出てくるのでした。それぞれの膳が縁起の最もよいものに由来していたようです。

本客の人数は七人・九人と奇数の人数とされていました。

祝儀の翌日は「中戻り」をしていました。夫婦で親元へお礼の挨拶に行っていました。この時は客分として(もてな)しを受けます。帰るときは両親も同伴して婚家へお礼挨拶に行きます。そこで再び祝い合って酒をくみ交わしていました。

親類一同と加勢人は翌日後祝いをしていました。特に親しい人は家に招待されていました。

〇おとむらい

昔は、死人が出ると葬式の前夜は近親者等がお通夜をして死体を守って夜を過ごしていました。死体の安置の仕方も普通と逆さまで寝かせ方も北頭・北枕(藁枕)、掛衣も裾を頭部の方へかけ、袖を足の方にかけて安置していました。葬式間近になると、近親者は湯潅酒を呑み合って、畳・床板をはぐり根台の上に小さな簀子をおいてその上で湯潅をしました。そして、白装束にして棺に入れていました。土葬が大方でしたから読経・焼香で葬儀がすむと封棺をして出棺していました。近親者は、銭の網を引き墓所へと向う。一般の人も野辺の送りをして墓所までいっていました。僧侶の読経があって埋葬していました。

葬式の日は近所の人々に加勢を頼みいろいろの準備をしてもらいました。大臼で玄米の手搗きをしたり、柴取りをしたり、飯炊きをしたり、箸つくり(竹で)をしたり等葬具一切の仕事をしてもらっていました。大工は館や位牌・墓標木・銭の綱板・花()の膳部・天蓋等を作っていました。また、埋葬でしたから、墓所の穴掘りは区長が若者から四・五人を選んで頼んでいました。

穴掘人には休み時間(三時)に握り飯を届けていました。葬式がすんだ晩は、大工・穴掘人には高膳をすえて接待していました。

女の加勢人には前夜豆腐廻りが来て朝早くから豆腐造りをしてもらっていました。女は主として賄いの方でありました。死人の枕飯は飯椀一ぱい分だけ炊けと言い付けていました。

穴掘人に頼まれぬ人がありました。その人は妻が妊娠中の人でした。

一、出棺のとき左廻りに三回廻る(以下養寿寺和尚様指導)

葬儀(出棺のとき)の行列が三回廻るについては、涅槃門から発心門にぬけ、修業門に入り、菩提門にぬけて、涅槃門に入り、つぎは涅槃門を出て、菩提門に入り、修業門にぬけて、発心門に入って火屋に収めるのです。

こうすると始めは右廻り、つぎが左廻りとなります。生死涅槃と涅槃生死と順逆に廻って三世一貫・十方法界、この一圓相に収まる佛法の道理を標するのだから右廻り三回・左廻り三回でなかなか大変なことになります。そこで、葬式は左廻り三回で止めることになっています。

二、葬列の順序

これは、地方によって諸説がありますが、一般的な例であげると、松明(たいまつ)(ちょう)(ちん)大幡(おおはた)導師(どうし)(衆僧)・位牌・霊膳・膳の綱(縁の綱)・霊寵(りょうかん)天蓋(てんがい)・親族・一般会葬者となります。

三、膳の綱(縁の綱)

(かん)(だい)から曳くの膳の綱はいつしか「禅の綱」と一般に解されるようになっていますが、これは佛像の開帳・入佛式・鐘供養の曳綱にも行ないます。祝のときは紅白で行ない、葬式のときは白で行ないます。

〇もぐら打ち

十三日の昼から手頃な男竹を切取り(かずら)も切り取ってきます。竹の笹は落とさなくて笹の部分を折り曲げ藁で包み、蔓で螺旋状に巻取りしてもぐら打棒ができあがります。

十四日の早朝、(ほか)の四方を「もぐら打棒で土をもぐらぬように」と打ち叩いて廻ります。

子ども達は初夜の嫁さんの尻叩きに行きます。これは初嫁が一生居座ることを願って初嫁の尻を叩くのです。その後で接待を受けますが、子ども達のいちばんの楽しみの行事としています。また、折れた打棒は沢山の実がなるようにと、柿の木に掛けておきます。

〇鬼火焚き

正月六日夕方から青竹を切り取って来て家の前に置きます。七日朝竹を一か所に寄せます。焚く場所は道端の三叉路になった所が良いのですが、現実にそうもいかないようです。

組中(仲間)が集まって焚きます。

松飾りを焼きその火で鏡餅を焼きます。この餅を神仏に供え厄除とします。また、餅を

食べ鬼火に暖まると無病息災といわれており頰が赤くなる程暖まります。

〇七草粥

七草粥は畑からせり、なずな、ははこぐさ、はこべ、ほとけのざ、かぶ、だいこんを取ってきて、それをゆがき水を切っておきます。粥を炊くときゆがいた七草を入れ炊きあげると七草粥ができあがります。

七草粥は、夏の病にかからぬようにと欠かさず炊いて食べています。

〇彼岸ごもり(主に秋彼岸)

彼岸の中日に集落の総ての人が、観音堂(下組)権現堂(上組)に寄り合い、先祖をお祀りして感謝を捧げ酒食を交わしていました。

酒を注ぎ交わし、肴も交わします。また、押鮓、押ごわえを交換し合い、親睦を深めていました。

余興には歌や踊りがあり賑わっていました。若者は押酢、押ごわえ等を(めし)(そう)ケを持ち回って貰うのでした。それを明日の宿移りの時、(そう)ケの鮓、こわえが空になる程食べていました。後で「腹ゴナシ」にと俵担ぎ、棒押し、引き、捻り等をして体力をつけていました。

〇地蔵菩薩祭(六地蔵大菩薩)

昔は旧暦七月二十四日青年団員総出して、昼から竹と杉の葉を(ふじ)(かずら)で編んで(まがき)を作って囲み、花を大竹筒に揷入れ供えます。

六地蔵菩薩を年毎に一体を右回しで移していきます。夕方から集落の大方の人がお詣りします。青年の方から御神酒を頂き御供餐をうけます。

その後で昔は鉦、笛、太鼓を打って歌や踊りもでて祭りが盛りあがっていました。現今でも祭りの仕様は同じですが、子供、青年団、婦人会をはじめ各人よりの歌や踊りで祭りを賑やかにしてくれています。

第七節 波多津町の名字

一、集落別世帯数並名字数(町内一軒だけの名字は別記)

●木場(六十五世帯)

松下(二十四) 井本(十一) 末長(九) 前川(七) 山口(四) 長谷川(四)

上田(一) 西川(二)

●開拓(九世帯)

古川(一) 松下(一) 高森(一) 井本(二) 渡辺(一) 堤(一)

●筒井(五十三世帯)

田中(六) 古川(十二) 市丸(十一) 松尾(四) 奈良﨑(九) 鶴田(二)

上田(三) 宮崎(二) 田原(二)

●井野尾(三十七世帯)

古川(十四) 前田(二) 古河(四) 高田(八) 山口(一) 大久保(四)

森野(三) 藤本(一)

●田代(十九世帯)

田中(五) 古河(七) 谷崎(五)

●板木(三十世帯)

市丸(二) 前田(十) 畑山(九) 瀬戸(五) 古舘(二)

●津主(二十世帯)

市丸(十五) 前田(三) 太田(二)

●中山(三十九世帯)

田中(十五) 古賀(十六) 松尾(五) 瀬戸(一) 太田(一)

●畑津(四十四世帯)

田中(一) 松本(九)小杉(一) 井手(三) 金子(四) 前田(二) 塚部(一)

大久保(三) 坂本(五) 原田(四) 浦田(三) 谷本(三) 山本(三)

野田(一) 中島(一)

●内野(六十世帯)

小杉(十八) 井手(六) 金子(十二) 古賀(一) 藤森(九) 坂本(二)

原田(二) 鶴田(二) 藤本 (一) 脇山(二) 丸田(二)

●煤屋(三十四世帯)

田中(二十七) 鶴田(一) 岸本(三)

●馬蛤潟(二十九世帯)

井手(八) 井本(一) 吉田(一) 渡辺(五) 原田(一) 柴田(六) 橋口(一)

中嶌(一) 辻(二)

●辻(四十四世帯)

田中(一) 高森(二十) 栗原(十一) 山口(一) 池田(二) 川元(一) 

波多(二) 稲葉(一) 小石原(一) 川添(一) 内田(一) 廣瀬(一)

●浦(二百六十八世帯)

 田中(三十七) 古川(三) 市丸(二) 松本(十四) 高森(二) 小杉(三)

 井手(四) 金子(四) 塚本(二十) 古賀(一) 栗原(五) 酒谷(十四)

 松尾(三) 青木(十二) 塚部(十) 藤森(二) 篠崎(十) 吉田(七)

 久保(八) 山口(一) 渡辺(一) 大塚(七) 水尾(七) 橋口(五) 浦田(二)

 杉本(五) 大石(四) 宮崎(一) 古舘(一) 池田(一) 川元(二) 岩野(三)

 津田(三) 平松(三) 堤(一) 野田(一) 稲葉(一) 小石原(一) 川添(一)

 内田(一) 川本(二) 芳屋(二) 樋口(二) 岩崎(二) 庄司(二) 須藤(二)

 谷川(二) 堤田(二) 古崎(二) 古橋(二)

●名字別集計(七百五十一世帯)

 田中(九十二) 古川(三十)  市丸(三十)

 松下(二十五) 松本(二十四) 高森(二十三)

 小杉(二十二) 井手(二十一) 金子(二十)

 塚本(二十)  古賀(十八)  前田(十七)

 栗原(十六)  井本(十四)  酒谷(十四)

 松尾(十二)  青木(十二)  古河(十一)

 塚部(十一)  藤森(十一)  篠崎(十)

 末長(九)   畑山(九)   奈良崎(九)

 吉田(八)   久保(八)   高田(八)

 前川(七)   山口(七)   渡辺(七)

 大久保(七)  坂本(七)   原田(七)

 大塚(七)   水尾(七)   瀬戸(六)

 柴田(六)   橋口(六)   鶴田(五)

 谷崎(五)   浦田(五)   杉本(五)

 長谷川(四)  上田(四)   大石(四)

 宮崎(三)   森野(三)   古館(三)

 太田(三)   谷本(三)   岸本(三)

 池田(三)   川元(三)   岩野(三)

 津田(三)   平松(三)   西川(二)

 堤(二)    田原(二)   藤本(二)

 山本(二)   野田(二)   中島(二)

 脇山(二)   丸田(二)   辻(二)

 波田(二)   稲葉(二)   小石原(二)

川添(二)    内田(二)   川本(二)

芳屋(二)    樋口(二)   岩崎(二)

庄司(二)    須藤(二)   谷川(二)

堤田(二)    古崎(二)   古橋(二)

二、複数使用のうち一集落だけの名字

(1)浦集落のみ二十二種

塚本・酒谷・青木・篠崎・久保・大塚・水尾・杉本・大石・岩野・津田・平松・川本・芳屋・樋口・岩崎・庄司・須藤・谷川・堤田・古崎・古橋

(2)他の集落十八種

木 場(末長・前川・長谷川・西川)

板 木(畑山)         筒 井(奈良崎・田原)    井野尾(高田・森野)

田 代(谷崎)         馬蛤潟(柴田・辻)      畑 津(谷本・山本)

煤 屋(岸本)        内 野(脇山・丸田)     辻(波多)     

三、町内五十四軒は一つ名字

(1)浦集落のみ三十二種

石井・井川・大西・大野・横場(おうば)・梶山・川崎・川野・木寺・小島・小寺・塩塚・正野・末吉・田森・竹田・谷口・筒井・永野・野方・浜田・浜地・原口・東島・前山・町田(まちだ)・溝ロ・本石・森・山下・吉村・早稲田

(2)浦以外の一軒だけの名字(二十二軒)

木 場(松岡・一ノ瀬・中西)開 拓(峰松・木須)   筒 井(宮口・古澤)

田 代(福野)       板 木(加川・小田)  内 野(堀田・堀川・藤田)

煤 屋(佐伯・永田・(すえ)(いし)) 馬蛤潟(兼武・石崎・清松) 辻(福地・川上・廣瀬)

〇集落別の名字及世帯数 

集落別    名字    世帯数   ・   集落別    名字    世帯数

 木場    十一    六十五       津主    三     二十

 開拓八九中山六     三十九

 筒井    十一    五十三       畑津    十六    四十四

 井野尾    八     三十七       内野    十四    六十 

田代五     十九        煤屋六     三十四

板木七     三十        馬蛤潟    十二    二十九

辻      十三    四十四       浦     八十五  二百六十八

 合計 名字実数 二百五  世帯数 七百五十一