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藤山雷太像 熊岡美彦筆


藤山雷太像 熊岡美彦筆
(2023年12月14日更新)

市指定重要文化財・美術工芸品

藤山雷太像 熊岡美彦筆

(ふじやまらいたぞう くまおかよしひこひつ)

 

二里町大里乙284番地1 二里小学校

令和5年11月1日指定


 

熊岡美彦 経歴

 1889 年(明治 22)茨城県生まれ。土浦中学校卒業後、東京美術学校に入学、和田英作、藤島武二に師事し、美術学校卒業後の 1913 年(大正2)には文展(文部省美術展覧会)に入選しました。

 1919 年(大正8)の第1回帝展(帝国美術院展覧会)では特選に選ばれ、1925 年(大正 14)の第6回帝展では「緑衣」を出品して、 この年から設けられた帝国美術院賞を受賞しています。この作品の モデルは、三井財閥の関係者であると言われており、このことから、 三井家と親しい関係であった藤山雷太の肖像画を美彦が描くことに なったと思われます。

 1926 年(大正 15)から帝展委員となりましたが、同年から 1929 年(昭和4)にかけて渡欧し帰国後、1931 年(昭和6)には熊岡洋画研究所(後の熊岡絵画道場)を設立して後進を育成し、1932 年 (昭和7)には斎藤与里らとともに東光会を結成しました。1936 年(昭和 11)には中国・台湾・朝鮮を漫遊し、その後も 文展の審査員として力強い作風で活躍していましたが、1944 年 (昭和 19)に 55 歳で逝去しました。

 美彦は「信念をもって描く」ことに果敢にいどみ、職業画家として 華麗に、そして豪快に生きるとともに、独自に絵画学校を創設して多 くの優れた門人を育てました。大正、昭和の日本洋画画壇における 第一人者であり、現在も美術的評価の高い画家です。

 

藤山雷太 経歴

 藤山雷太は1863年(文久3)に有田郷大里村(現在の二里町大里)で生まれ、森永太一郎、川原茂輔らとともに「伊万里の三偉人」と呼ばれています。

 慶應義塾で福沢諭吉の下で学び、「一人一人の生活を大切にしながら国を豊かにしなければならない」と考え、24歳で長崎県会議員となり、その後、実業界入りを志して上京し、29歳の時に三井銀行に入社しました。以降、芝浦製作所支配人や王子製紙専務取締役、東京市街鉄道株式会社専務取締役などを歴任し、業績不振の会社や工場の支援指導を行って経営を立て直し、業績を伸ばすなどの実績を積み上げました。

 1909年(明治42)には渋沢栄一の依頼を受け、経営危機状態であった大日本製糖株式会社の取締役社長を引き受け、これを見事に再建しました。その後、製紙、機械、印刷、鉄道、火災保険、など38社の取締役や所長、社長、副社長、相談役、理事、会長、監査役、顧問などを歴任し藤山財閥を築き上げました。

 1919年(大正8)に産業の発達、特に製糖業に貢献したことにより藍綬褒章を、さらに1923年(大正12)には公益のために私財を寄付したことにより紺綬褒章を受章しました。1924年(大正13)には国家、公共への積年の功労に対して瑞宝章が授与されました。この肖像画は褒章や勲章などを受章した時の記念として1926年(大正15)に描かれたと思われます。

 また、雷太は故郷を忘れず、大里の神原八幡宮の社殿を建立し、鳥居や灯籠なども寄進しています。(その後、社殿は落雷により焼失し、現在の社殿は再建したものです)さらに、二里小学校には当時の金額で千円もの寄付をしました。現在、神原八幡宮には北村西望制作による雷太の古希記念銅像があります。1938年(昭和13)75歳で逝去し正五位を授けられました。雷太は生涯に70以上の公職に就き、明治、大正、昭和の実業家として日本の産業や経済の発展に尽くしました。

 

 本作品は、日本の近代洋画を代表する熊岡美彦の手によるもので、実業家として日本の産業や経済の発展につくした伊万里市出身の藤山雷太の功績を讃える絵画として意義深いものであり歴史的な価値が高く、重要な文化財です。