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肥前国杵島郡山城村田方帳類ほか


肥前国杵島郡山城村田方帳類ほか
(2008年6月10日更新)
市指定重要文化財 古文書
肥前国杵島郡山城村田方帳類ほか
(ひぜんのくにきしまぐんやましろむら たかたちょうるい ほか)

立花町1355番地1 市役所(伊万里駅より車で10分)
平成11年(1999)4月30日指定

田方帳類

 肥前国杵島郡山城村田方帳類ほかは、東山代町里(さと)の正福寺(しょうふくじ)で見つかりました。内訳は田方帳類(たかたちょうるい)が多く、慶長(けいちょう)十六年(1611)のものが2冊、延宝(えんぽう)五年(1677)のものが7冊、元禄(げんろく)十五年(1702)のものが2冊ありました。残りは表紙が欠落して年号や帳名がわからないもの1冊と起請文(きしょうもん)が1枚でした。
 田方帳類とは、領主が年貢を課するための土地台帳です。当時の土地利用のようすなどを知る上で貴重なものです。
 山城村(旧山代郷東部)は、鍋島直茂(なべしまなおしげ)の家臣、田尻(たじり)氏の領地でした。山城郷が佐賀本藩領から小城藩領になっても、実質は田尻氏が治めました。このため、この文書類は、現在、東山代町大久保(おおくぼ)の親種寺(しんしゅじ)に伝わっている田尻家文書の一部だった可能性が高いと考えられます。
 興味ぶかいのは、表題が、慶長十六年のものは「杵嶋郡」(きしまぐん)、延宝五年のものは「松浦郡」(まつうらぐん)と書かれていることです。これは、慶長16年に江戸幕府が、あやまって佐賀藩の松浦郡を杵島郡に含めてしまったことにはじまり、寛文(かんぶん)八年(1668)に鍋島光茂(なべしまみつしげ)が、将軍、徳川家綱(とくがわいえつな)に、歌枕(うたまくら)で有名な松浦郡が藩内にあることを訴えて、認められるまで続いた地名の混乱を具体的に示しています。伊万里の近世史を知る上で貴重な資料です。