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中野神右衛門供養塔


中野神右衛門供養塔
(2008年6月10日更新)
市指定史跡
中野神右衛門供養塔
(なかのじんうえもん くようとう)

松浦町桃川6092番地1(伊万里駅より車で25分)
昭和62年(1987)11月1日指定

照真院浄通禅定門供養塔写真(通称:中野神右衛門供養塔)

 中野神右衛門供養塔は松浦町下分(しもぶん)地区にあります。高さ1.63m、幅1.35m、厚さ15cmの砂岩製の板碑(いたび)です。
 中央に「照真院浄通禅定門霊」(しょうしんいんじょうとうぜんじょうもんのれい)、左側に「南無多宝如来 元和七年辛酉 逝去妙真霊位」(なむたほうにょらい げんなしちねんかのととり せいきょみょうしんれいい)、右側に「南無釈迦牟尼佛 七月十八日 一周忌立之」(なむしゃかむにぶつ しちがつじゅうはちにち いっしゅうきにこれをたつ)と刻まれています。文字は薬研彫り(やげんぼり)です。
 「照真院浄通禅定門」とは中野神右衛門清明(きよあき)の法名です。「妙真」は神右衛門の死に殉じて切腹した横田作右衛門[堪右衛門](よこたさくうえもん[かんうえもん])の法名です。この碑は一周忌の供養のためにたてられたもので、近世の板碑を研究する上で貴重です。
 清明は弘治(こうじ)元年(1555)に生まれました。はじめに武雄領主後藤貴明(ごとうたかあき)に仕え、20代前半頃に鍋島直茂(なべしまなおしげ)の家臣になりました。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき…1592~1598)でも直茂とともに戦っています。慶長19年(1614)には伊万里代官西目一通り心遣い役(いまりだいかんにしめひととおりこころづかいやく…直茂の代わりに伊万里郷・有田郷・山代郷の西目三郷を治める役職)につき、下分地区に館をたてました。元和6年(1620)7月18日に66歳で亡くなりました。そのため館があったという館中原(たっちゅうばる)に、現在も供養塔がたっているものと考えられます。
 清明の子は、初代皿山代官の山本神右衛門重澄(しげずみ)で肥前窯業の基礎を築きました。また清明の孫は『葉隠』の口述者として有名な山本神右衛門常朝(じょうちょう)です。