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02 女相撲


02 女相撲
(2021年1月28日更新)
No.016
No.016

女相撲 高尾山相撲場

No.017
No.017

女相撲 高尾山相撲場

No.018
No.018

女相撲 高尾山相撲場

No.019
No.019

女相撲 高尾山相撲場

No.020
No.020

相撲を観戦する子どもたち

波多津の女すもう

女相撲 波多津の女すもうは健康色に輝く女力士たちが、真っ白な丸首シャツと半ももひきをつけて黒しゅすのまわしを締め、その上に自分のしこなを金銀糸で縫い取った華麗な化粧まわしをきりりと締め込みます。今のようにパーマでなかったころは、大たぶさのすもうまげに結っていたのでたいそう見ごたえがありました。

 まずかみしも・はかま姿に軍配片手の行司を先頭に、力士、諸役員、諸世話人の一行がにぎやかに土俵入りし、円陣をつくっての揃い踏み、のど自慢の甚句に合せて華やかにすもう踊りをするのですが、多い時は三十人に近い力士集団でしたから、演ずるも見るも気合が入って盛大でした。すもう踊りの所作はやや単調で緩やかですが、これはもともとすもうの基本形を表現するものです。

 波多津の女すもうは町内辻浦の漁業集落に、男すもうとともに昔から伝わる大漁感謝と祈願の神前奉納行事でした。その起源はすもう甚句のとおり、豊臣秀吉朝鮮の役の戦勝祝賀の時からと伝えられています。

 女すもうはその後何かの都合で一時期途絶えていたのを、故塚本留造氏(明治11年生~昭和43年没、留碇関とよび波多津すもうの全盛時代を築き九州頭取を張った人)が、生涯の仕事として復興再現に取り組み、奥さんや家族の内助、故青木熊太郎氏(若獅子)故金子元治郎氏(行事白幡)などの協力、女力士連中の努力が実を結び、第1回公開は高尾山公園内天野翁領德碑の除幕式の日、大正11年10月15日であったということです。

 その後女すもうは故塚本老の指導で、取組を基本として、すもう甚句、すもう踊り、土俵入り弓取り式等一通り法式にかなった演技ができるようになりました。しかし相変わらず村内行事の域はでませんでした。

 29年3月波多津中学校落成式に松尾村長の要請によって出演、引き続いて翌4月町村合併伊万里市誕生祝賀会に、橋口市長の要請を受けて出演した時から報道機関に取り上げられ、にわかに世の注目を浴びるようになり、招聘申込が相次ぎました。今まで東京、大阪、佐賀、唐津等県内外に二十回以上出演しています。          

(いまりの歴史散歩(伊万里市教育委員会)昭和56年発行より抜粋)

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