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南波多町の紹介


南波多町の紹介
(2014年4月16日更新)

1.町民憲章

1.私たちは、明るくあいさつを交わします。
1.私たちは、伝統や地域行事を大事に引き継ぎ、心豊かな町づくりに努めます。
1.私たちは、環境美化に努め、豊かな自然を大切にします。
1.私たちは、子どもたちをあたたかく見守り、心も体も健やかに育てます。
1.私たちは、思いやり、助け合いの協働参画の精神で町の活性化に努めます。
1.私たちは、趣味やスポーツに親しみ、健康で明るい家庭をつくります。

2.町の花、木

シンボルマーク

シンボルマークの画像

 南波多町は、伊万里市の東部純農村地帯にあって、70%を占める山林、原野に囲まれた大野岳のふもとの盆地の町であります。また、西日本屈指の果樹(梨・巨峰ぶどう)の生産地でもあります。右下の山は南波多のシンボル大野岳であり、黄色の丸は梨、三つの丸は巨峰ぶどうを意味し緑豊かな自然の中で町の振興・活性化が続くことを願い決定されました。

町の花(梨の花)

南波多町は、日本梨については、西日本一の植栽面積を誇り、3月~4月にかけて町内いっぱい白い花が咲き、町の花としてふさわしい。

町の木(樫)

町内には豊かな自然が点在しているが、白山神社をはじめ鎮守の森に自生して大木となり一年中緑を絶やすことなく町民を見守っている。

3.南波多町の概要

明治22年(1889年) 市町村制施行により、南波多村となる
昭和29年(1954年) 2町7村合併により、伊万里市となる
平成 元年(1989年) 南波多公民館、現在地に移転改築

  • 人口   2,674人(男 1,283人、女1,391人) 
  • 世帯数  803世帯   (人口、世帯数は平成26年4月1日時点)
  • 面積   29.24平方キロメートル

4.伊万里のお宝50選(南波多町分)

小麦原の郷組屋敷群
(こむぎはるのごうぐみやしきぐん)

 南波多町小麦原にあります。江戸時代に唐津藩(はん)の基礎を築いた寺沢志摩守廣高(てらさわしまのかみひろだか)は、波多(はた)氏の旧家臣団や領民の遺恨(いこん)を恐れ、波多氏の旧家臣団を召し抱え、国境の警護のために郷足軽(あしがる)制をしいたとされています。小麦原には14人の郷足軽組が配置されました。小頭(こがしら)は岡本家の世襲であったといわれています。周囲の山の管理や治安を担うために、見回りなどのほか、捕縛術(ほばくじゅつ)や鉄砲の訓練などの日課がかせられていました。佐賀領との境の府招番所(ふまねきばんしょ)には、小麦原郷足軽組から毎日2人ずつが警備にあたりました。また、天保(てんぽう)9年(1838)の天領一揆(てんりょういっき)の時は、一揆勢の鎮圧(ちんあつ)にあたりました。現在10戸ほどの屋敷群が残っていると言われています。

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小麦原の郷組屋敷群

大野神社境内の自然林と井手野盆地の雲海

大野神社は大野岳の南斜面の8合目付近にあり、社殿(しゃでん)の周辺には常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)で樹齢(じゅれい)300年を超(こ)えるスダジイの巨木が十数本繁(しげ)り、同じ広葉樹のアカガシ、イスノキ、タブノキなどが生育しています。樹齢約200年のイロハモミジの大木もあります。典型的(てんけいてき)な自然林の形態が保たれており、市内の寺社のなかでも屈指(くっし)の自然林と言えます。
夏から秋にかけての晴れた夜は、放射冷却(ほうしゃれいきゃく)によって霧(きり)が発生し、日の出ごろ、大野岳から井手野盆地を見下ろすと、八幡岳(はちまんだけ)、眉山(まゆやま)、大陣岳(おおじんたけ)の中腹から頂上までが白一色の霧の中から突き出て見えます。展望(てんぼう)には、頂上の東側、こぼとけ展望台、夫婦(みょうと)岩などが適していますが、車の中から気軽に眺(なが)めるのには大野神社南側の「しあわせ公園広場」付近がよいでしょう。

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井手野盆地の雲海

住吉天神社の水害水位記録

住吉天神社は南波多町水留(つづみ)の波多(はた)川右岸の川辺に鎮座(ちんざ)します。祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊(たかみむすびの)命、神皇産霊(かみむすびの)命の三柱です。もとは天神社でしたが、大正3年(1914)に西にあった住吉神社を合祀(ごうし)しました。本殿と拝殿(はいでん)は木造瓦葺(かわらぶき)で、その時、再建されました。
 井手野盆地を北流する徳須恵(とくすえ)川は水留の集落を抜けると「中の瀬」の渓谷に入り、川幅が狭くなります。そこに板治(いたじ)川や志気(しげ)川が合流しているため大雨が降ると水かさが増え水留は水害が発生しやすいのです。住吉天神社には、江戸時代からの水害時の水位が拝殿の柱に記録してあります。水位を刻んだ石柱も建立されました。境内(けいだい)には本殿・拝殿のほか慶応(けいおう)3年(1867)4月再建のお篭(こもり)堂や川舟の発着所と物々交換の人寄せ場跡があります。

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水害水位記録

桑木原のサイフォン

昭和5年(1930)頃(ごろ)の南波多町原屋敷(はらやしき)の水田は約44町、農家戸数は70戸で水田が不足していました。昭和6年(1931)、耕地整備組合が設立され、最高責任者に岩永末蔵が選ばれました。昭和8年(1933)、楠木原、神田、長尾、桜谷、平松、桑木原の水田開発工事が始まり、水田開発と平行して、水源を確保するための平木場ため池拡張と水路の整備工事も始まりました。桑木原耕地の水を確保するため、水路は桜谷から原屋敷川の河床を通り、向かい側の桑木原(河床からの標高差約60m)まで押し上げるサイフォン式が採用されています。昭和13年(1938)、5年間の工事が終了、全体で17町歩(ちょうぶ)を超える水田が完成しました。

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桑木原のサイフォン

5.観光リーフレット 「 伊万里市 南波多町 ~フルーツと伊万里牛の里~ 」

南波多町観光リーフレット