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地域の情報


地域の情報
(2014年1月30日更新)

大坪地区の紹介

1.大坪地区町民憲章

   私達は、渭水の流れと緑豊かな自然に育まれ、歴史と文化に恵まれた、大坪地区町民であることに誇りを持ち、

  みんなで力を合わせ、安全で明るく、豊かで、活気ある住みよい新しい町づくりを願ってこの町民憲章を定めます。

  1. 私達は、恵まれた自然を守り、住みやすい町づくりを行います。
  2. 私達は、敬老の精神を培い、子どもの夢を育てる町づくりを行います。
  3. 私達は、人権を尊重し、思いやりのある町づくりを行います。
  4. 私達は、安全で、安心して暮らせる町づくりを行います。
  5. 私達は、伝統を大切にし、文化を育む町づくりを行います。

シンボルマーク

大坪シンボルマーク

  • 周囲の円は(葉)、町の木「柾」をあらわしています。
  • 葉は片方7:7で大坪地区14地区を表しています。
  • 葉の緑は、渭水の流れと緑豊かな自然をイメージしています。
  • 葉の輪は、大坪地区の「オー」と地区の和「協働」「平和」を表しています。
  • 葉(根元)のクロス部分は、14地区の『絆』を表しています。
  • 重なり合う葉は、みんなで手を取合って町を創るイメージです。
  • 葉の突出部分は、大坪地区の「翔」未来への飛躍を表しています。
  • 大坪地区の未来に光るものを黄色の玉で表しています。
  • 配色の緑と、黄色は町の花「菜の花」をイメージしています。
  • OTSUBO伝統のある歴史を思わせる、ゴールドで格調の高さをイメージしています。
  • SINCE 1889 明治22年町村制施行の際、今岳、町裏、新田の3ヶ町村が合併し「大坪」の名称誕生。

町の花 【菜の花】

   春の訪れと共に、大坪地区の里に黄色いじゅうたんを広げる菜の花。

 菜の花は、油の原料として栽培されたが、川原や荒れた土地にも繁茂する、元来は丈夫な植物で「大坪地区の根強さ」を表す。

   又、廃食用油は、バイオディーゼル燃料になる.自然環境にやさしい「花」、 「エコライフ」大坪地区を目指す。

      花言葉 「豊かさ」大坪地区の融和と協調、心の豊かな町

             「快 活」大坪地区は明るく元気で活気のある町

町の木 【まさき】

  明治16年開校の大坪小学校、大坪小学校の校門として、建立された赤門。

赤門健児の象徴とし、子供と母校を結ぶ絆となり心の支えとなっている。

その赤門に通じる両脇に柾道(まさきみち)があり、地域の人達と故郷を離れた方々の思い出の木でもある。

2.大坪地区の概要

明治22年(1889年) 町村制施行により、大坪村となる
昭和18年(1943年) 伊万里町大坪村、大川内町が合併して伊万里町となる
    昭和29年(1954年) 2町7村合併により、伊万里市となる
昭和54年(1979年) 大坪公民館、現在地に新築

  • 人口   7,799人(男 3,751人 女4,048人)
  • 世帯数   3,033世帯         (平成26年5月1日現在)
  • 地区数   14地区
    • 【上古賀】
    • 【下古賀】
    • 【みどりが丘】
    • 【六仙寺】
    • 【祇園町】
    • 【柳井町】
    • 【白野】(グランパランいまり)
    • 【あさひが丘】
    • 【永山】
    • 【屋敷野】
    • 【東円蔵寺】(長生園)
    • 【西円蔵寺】
    • 【栄町】
    • 【つつじヶ丘】

3.伊万里市の文化財(大坪地区分)

前田家住宅

  • 国登録有形文化財建造物(平成13年8月28日登録)

 前田家住宅は立花町西円蔵寺地区にあります。前田家は、江戸時代に代々、伊万里郷の大庄屋をつとめました。屋敷地は南北に細長く、約1,000坪ほどあります。
 主屋は、そのほぼ中央にあり、江戸時代後期に建てられたものです。南を正面とし、西側を道路に接しています。長屋門はありません。木造平屋建で、建築面積約291m2と民家建築では県内でも最大規模です。屋根は茅葺で、佐賀県の民家を特徴づける「くど造り」の最も発達した姿を伝えています。
 そのほか東の蔵は江戸時代後期、西の蔵は明治時代後期、北の蔵も明治時代後期に建てられたものです。それぞれ土蔵造平屋建で、建築面積は東の蔵が約51m2、西の蔵は約139m2、北の蔵が約61m2です。薪小屋は明治時代後期に建てられました。木造平屋建で建築面積は約30m2です。水車小屋は江戸時代後期に建てられ、明治時代後期に改造されています。木造平屋建で建築面積は約57m2です。屋根はすべて瓦葺です。
 各々の建物が建築学上でも高く評価され、また伊万里郷の大庄屋をつとめたほどの大規模民家の施設の全体構成や機能を知る上で貴重です。

前田家住宅写真
前田家住宅

午戻 遺跡石棺墓出土遺物

午戻遺跡出土物
午戻遺跡石棺墓出土遺物

4.伊万里のお宝50選(大坪地区分)

古賀のつうわたし (神座(かみざ)まわし)

 毎年12月14日に大坪町古賀で行われます。今岳権現(いまだけごんげん)の分霊(ぶんれい)を前年の12月から世話したその年の当番(頭(つう))から来年の12月まで世話する当番に引き渡す行事で、「頭」を引き渡すので「つうわたし」と言います。昼ごろ、その年のまつり組の会所(えいしょ)に来年のまつり組の人々が招かれ、酒宴(しゅえん)が開かれ、その席で、つうわたし行列の役割がクジで決められます。役が決まると、その衣装を身にまとい、顔に墨(すみ)で隈取(くまどり)をします。役には「大権現」「神官」「法螺貝(ほらがい)吹き」「汐(しお)ふり」「賽銭箱(さいせんばこ)持ち」「長持ち」などがあります。夕方から深夜にかけて行列を組んで、各組をお祓(はら)いしてまわり、最後に来年の会所に今岳権現の分霊を安置します。

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古賀のつうわたし

山王神社の大御田祭
(さんのうじんじゃのおおおんださい)

 大坪町白野(しらの)にある山王神社で、12年に1度の申(さる)年の4月上旬に三日間の祭りが行われます。中日の本祭りでは、拝殿(はいでん)内でお祓(はら)いの後、申年生まれの少年少女による浦安(うらやす)の舞(まい)の奉納(ほうのう)があり、その後、境内(けいだい)で烏帽子(えぼし)をかぶった白装束(しろしょうぞく)の男たちが、むかしながらの農具を用いて、田うち・田起こし・代(しろ)かき・苗代(なえしろ)ならしの所作(しょさ)を行ない、また、すげ笠に、たすきがけの早乙女(さおとめ)姿の女性たちが、種まきと田植えの所作を行ないます。実際の田植えの前に、田植えまでの動作をしておくことで、田植えがうまくいき、豊作になることを祈る予祝(よしゅく)行事です。

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山王神社の大御田祭

旧大坪小学校の赤門 (せきもん)

 明治16年(1883)に伊万里小学校から町裏(まちうら)小学校として分離し、明治26年(1893)に柳井町に校舎建築が開始され、翌27年(1894)に大坪小学校として開校しました。すぐれた人材の育成を念じ、東京大学の赤門になぞらえて、校舎とともに、レンガづくりの赤門が建立されました。それ以来、大坪小学校のシンボルとして、また「赤門健児(せきもんけんじ)」という言葉に象徴(しょうちょう)されるように、心の支えとなりました。小学校は昭和29年(1954)に新校舎(現  大坪小学校)に移転し、跡地には大坪公民館が建てられていますが、赤門は100年以上もの間、風雪に耐えて、威風堂々(いふうどうどう)として、今でも地域のシンボルとして尊ばれています。また、現  大坪小学校には昭和58年(1983)に創立100周年を記念してレンガ造りの赤門が復元されています。

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旧大坪小学校の赤門

円造寺公園 (えんぞうじこうえん) (水源池跡)

伊万里水道浄水場として、大正4年(1915)1月に竣工しました。佐賀県内では初めて、九州では4番目のことで、当時の中村千代松町長の一大功績(こうせき)事業でした。昭和2年(1927)10月発行の『伊萬里案内』には、本町の大部分が埋立地のため飲料に適する井戸が少なく、全住民は水道建設を考えていました。しかし、工事費が多額であり、また適当な水源地がないため、困っていましたが、熱心に研究し、伊万里川の河水を大坪村円造寺の高所へポンプで引き上げる方法を考案し、理想的な水道施設を建設したことが紹介されています。
 昭和40年(1965)3月に給水区域の拡大で、水源が有田川に変わったため浄水場は、廃止となりましたが、跡地は公園として整備され、桜や藤の咲く、すばらしい憩(いこ)いの場所となっています。

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円造寺公園

森永公園と森永太一郎翁の胸像
(もりながたいちろうおう)

 柳井町の森永公園は森永の乳製品工場の跡地につくられました。公園内には森永製菓の創設者  森永太一郎(たいちろう)の銅像があります。「西洋菓子の父」森永太一郎は伊万里出身で郷土振興(しんこう)のためにつくされました。この工場は、大正11年(1922)に新設され、当時大坪・牧島・大川内・二里などの酪農(らくのう)家から1日約3tの牛乳を集め、製菓原料用の練乳(れんにゅう)を製造しました。伊万里の酪農は、この工場設立を機会に隆盛し、伊万里の発展に大いに貢献(こうけん)しました。

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森永公園と森永太一郎翁の胸像

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